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加知彌神社
かちみじんじゃ
鳥取県鳥取市鹿野町寺内155−1

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鳥取県鳥取市(旧鹿野町)にある。
浜村駅から南へ4Kmほどの寺内、
道路の西側に、南向きに鎮座。
綺麗な参道を歩くと、小川にかかる橋を渡って境内。
参拝は年末の頃。境内には迎春の飾りが置かれていた。
年末なのに、緑が美しい境内だった。
創祀年代は不詳。
境内には木々が豊富で、鎮座地は、飯田森ともいう。
通称、勝宿大明神、かしじくさん。
「勝宿」の名から、当初、勝見郷の宿村に鎮座していたといい、
その後、宮谷あるいは明神ガ鼻へ遷り、
後、現在地(古称飯田森)に遷ったという説がある。
現在は、境内社に、勝宿神社というのがある。
大正2年に付近の14社を合祀して境内に祀ったもの。
長屋風の社殿には以下の名が記されていた。
砂田神、玉川神、今市神、宮方神、中園神、早尾神、高田神、
三平神、重山神、福田神、勝山神、澤田神、濱村神、宮川神。
この中の砂田神社は当社の摂社だったらしい。
もう一つ、境内の隅に、
東照宮、稲荷神社、荒神、若宮などを祀った小さな祠がある。
明治五年県社に列した。
神紋は「三神座」。漢字の「品」に似た形。
参拝時には、その漢字の「品」だとばかり思っていたが、
三柱の祭神を祀っていることから、この神紋になったという。
こういう変わった神紋に出会うと、嬉しくなるし、由来が知りたくなる。
参道入口 ![]() | 境内入口 ![]() | 境内 ![]() |
境内と社殿 |
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本殿 ![]() | 境内の木 ![]() |
14社を合祀の勝宿神社 ![]() | 境内社の小祠 ![]() |
加知弥神社(県指定保護文化財) 加知弥神社は大字寺内、通称飯田の森 と呼ばれるところにある。祭神は彦火々出見命、鵜草葺不合命、玉依姫命。創立 年代は不詳だが、延喜式神名帳にのってい る古社で、昔は勝宿大明神と呼ばれていた。 中世以降武将の崇敬が厚く、永禄八年 (一五六五)には、武田高信、田公高清、矢 田幸佐などが社殿を造営。また、天正八年 (一五八〇)には吉川元春が戦勝を祈念して 社領を寄進している。この折の元春の祈 願状と寄進状は県の保護文化財に指定さ れている。 −境内案内− 氏子のしおり 加知弥神社は気高郡鹿野町寺内飯田の森にある。祭神はひこほほでみのみことと、うがやふきあえずのみこと、たまよりひめのみことで創立年月はつまびらでないが、延喜式神名帳にのっている式内の古社でむかし勝宿(かししゅく)大明神といい、旧社地は宮谷あるいは明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬があつく、永録8年(1565)には武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8年(1580)には吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。なお元春の祈願状、寄進状2巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。社伝によると天正年中豊臣秀吉は防己尾(つづらお)城落城のとき社領を寄進したとのことである。また元和9年(1623)には池田光政が社殿を修理し、寛永10年(1633)国主池田光仲はあらためて社領39石6斗9升3合を寄進したが、そのご累代の藩主も崇敬あつく社殿の営繕あるごとに金殻木材を寄進し幣帛(へいはく)を奉納した。明治4年には県社になり同40年3月、神饌幣帛共進神社(しんせんへいはくきょうしんじんじゃ)に指定された。大正2年11月には、当社の摂社(せっしゃ)および付近の神社14社を境内に合祀(ごうし)して1社をたて、あらたに勝宿神社ととなえた。例祭日は10月21日である。寺内部落の薬師堂付近には、塔礎とみられる礎石がある。遺瓦は奈良後期のもので、むかし勝宿大明神の別当寺の旧跡だといわれている。 −『平成祭データ』− |
鹿野町の南側に、鹿野城址公園があり、
当社の宮司が兼務する城山神社が鎮座。
さすがに城址にある神社で、立派な参道を社殿だった。
境内から見下ろす町並みも美しい。
祭神は須佐之男命。亀井氏城中鎮護の神社であったという。
城山神社境内 |
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鳥居と参道 ![]() | 社殿 ![]() |
鹿野町を見下ろす |
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【 加知弥神社 加知彌神社 】
