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周方神社
すわじんじゃ
山口県周南市大字長穂1303
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旧徳山市の北側、旧鹿野町へつづく315号線の近く。
向道ダムによる向道湖の南1kmのところ。
315号線から東、長穂温泉側へずれた道の側にある。
315線を5km北上すると、同じ式内二俣神社論社の二俣神社、
さらに5km北上すると二所山田神社がある。
創祀年代は不詳。
往古、清寧天皇の頃(480〜)には、本村下莇に鎮座していたという。
後、字長田に遷座し、その後現在地に遷された。
「周方」と書いて、「すわ」と読む。
諏訪からの勧請社らしいが、最初、「周方」という字を見た時、
「すおう」と思い込んでいた。
周防國の国名の由来については、調べていないのだが、
当社との関係は無いのだろうか。
鳥居扁額にもあるように、当社は二俣神社と周方大明神の合体。
明治までは二俣神社周方大明神と称していた。
参道入口に鳥居には、「二俣周防両大明神」とある。
参道の森を抜けると階段があり、境内。
社殿は、少し荒れた感じだったが、
拝殿内には「産土講社」とあり、講社制度が残っているのだろうか。
本殿は拝殿後方に隠れていて、はっきり確認はできない。
階段状に幣殿があるようだが。
拝殿両脇にも鳥居があり末社らしき祠。右は恵比須、左は不明。
社域 |
参道入口 | 参道鳥居 |
社前 |
社前の鳥居 | 拝殿 |
社殿 |
拝殿左右の境内社 | |
長穂の式内正一位二俣神社は社傅によると、雄略
天皇八年に長田に鎮座、のち宮原の亀山へ移したが、後年、
鹿野、大向の両肚より式内の論争が生じたとき、亀山の社地
が狭いために両所に勧請させたものだと傅へてゐる。元禄
二年(一六八九)、再建の棟札には二俣周方二所大神と記載
されてゐるのであるが、これより先、貞享二年(一六八五)
八月廿日の『神主家舊記』に「周方國都濃郡一座之神社長
穂村宮ノ原と申所に従古来御社貳有之候…御什寶抔御座
候様ニ承候ヘ共、文禄年號之頃御社頭炎燒仕、其時代〆無
御座由申傅候」とあつて、文禄年間に焼失して以来、二俣
神社に関するものは一切焼失したのである。周方社につい
ては、社傅によると、清寧天皇の御宇、出雲國より本村字
下筋に御影向あり鎮座されたが、のち字長田に奉遷し、さ
らに現社地に遷すと傅へてゐる。元禄二年、社殿を再建し
て二社を合祀し、式内二俣神社周方大明神と称するに至
る。明治四年、周方神社と改称し、さらに同七年二月に郷
社に列せられた。
−『式内社調査報告』− |
【 周方神社 】