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能義神社
のきじんじゃ
島根県安来市能義町366
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式内社 出雲國意宇郡 野城神社 |
安来駅から45号線を南西へ進み能義町にある。
無人だった。
創祀年代は不詳。
出雲国風土記記載の「野城社」であり、
式内社・野城神社に比定される古社で、
同じく式内社の同社坐大穴持神社、同社坐大穴持御子神社を合祀する神社。
出雲国風土記には「野城社」が二社あり、
二つ目の野城社が、合祀の同社坐大穴持神社であるらしい。
また、「野代社」が二社あり、
二つ目の野代社が、合祀の同社坐大穴持御子神社であるらしい。
ただし、写本によっては、二つ目の野代社が野城社となっている
その場合は、最初の野城社が当社・能義神社、
二つ目の野城社が同社坐大穴持神社、三つ目が同社坐大穴持御子神社。
また、式内社・天穗日命神社であるという説もある。
中古より能義宮とも三社大明神とも称され、
明治になって能義神社と改称。
明治四年郷社に、明治六年県社に列した。
祭神の天穗日命は、天照大神の第二御子。
天照大神の使いとして、大国主命を助け
国土奉献産業福祉の開発に尽くされた神。
出雲国風土記には、野城大神とも記されているが、
「大神」とあるのは、熊野大神、所造天下大神、佐太大神と当社のみ。
朝廷、武門の崇敬篤い大社であったが
永禄六年、火災によって社殿、古記録等を焼失。
慶長十八年、当初より一段低い場所に再建。
明治四十一年、村松鎮座の八幡宮、金刀比羅神社、山王神社を合祀し
今日に至っている。
境内には土や藁を盛り結界した祭祀の跡が多い。
境内社がいくつか。
階段下には稲荷神社(倉稲魂命)。
本殿右に若宮神社(若宮之介霊)・塩津神社(塩見命)・野美神社(能美宿禰命)。
本殿左に愛宕神社(軻具突知命)・鷺神社(稲背脛命)。
参道の社日 | 鳥居 |
参道階段 | 神門 |
境内社殿 |
本殿 | 若宮神社・塩津神社、野美神社 |
本殿 |
鳥居横の稲荷社 | 後ろから本殿 | 鷺神社、愛宕神社 |
二つの盛り砂と藁の蛇? |
境内の祭祀場 | 境内の祭祀場 |
能義神社 旧県社 安来市能義町 山陰本線 安来駅より南方五粁 祭神 天穂日命 大己貴命 大己貴御子命 例祭 一○月一九日 神紋 二重亀甲劔花菱 本殿 大社造二○坪余 境内 三八六一坪 末社 六社 宝物 毛利家神領寄進状一通 堀尾山城守神領寄進状一通 出雲大社宮司社参証書 松平出羽守神領寄進状一通 能義神社縁起一巻 氏子 二六戸 崇敬者 千五百人 神事と芸能 御田植祭(五月五日) 輪くぐり祭(大祓祭、七月三十一日) 由緒沿革 天穂日命は此の地に到り農耕を進めて庶民を導き産業福祉の開発に尽された神で、延喜式には「能義一座天穂日命大社」とあり後大穴持神社、大穴持御子神社を合祀して野城神社と称した。貞観一三年正五位下に神階進み、天安元年に官社に預る。慶長一七年に国主堀尾帯刀茂助によって再興し、能義郡総社とさる。 −『神社名鑑』− 能義神社の由緒当社のご祭神は天照大神の第二子、天穂日命で あります。天穂日命は國土奉還の使者として高天原 より大國主大神のもとにおいでになり、大きなご功績を挙げられ た、大神のご祭主としてお仕えされた神様で、出雲國造家の 御祖神であります。当社の例祭十月十九日には、出雲國造 八十三代の御孫千家宮が親しく参拝され、御祖神の御神威 を奉戴されています。当神社の創建は遠く神代にさかのぼり 七三三年に撰上された『出雲風土記』には「野城社」とあり、九六七年 に制定された『延喜式』の神名帳には「野城神社」と記載される 古社であります。出雲の國人達は四大大神、つまり出雲大神、熊野 大神、佐太大神とならんで能義大神とその御神名を称え、尊崇 してまいりました。そして朝廷の御尊崇も殊に篤く、「六國史」には 数度にわたって神階を授けられた記事を見ることが出来ます。 又、社殿も古雅広壮であったと伝えられていますが、永録六年(一五六九年) 天災で焼失、慶長十八年(一六一三年)堀尾氏の御造営以来十一回の 御遷宮を経て今日に及ぶ大社造りの古社であります。 −境内説明より− |