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城上神社
きがみじんじゃ
島根県大田市大森町イ−1477
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島根県大田市にある。
石見銀山の入口にある代官所跡の近く。
銀山川のほとりに境内がある。
参拝日は小雨の9月。
周囲は木々が青々と茂って、シットリトした空気に満ちた午後。
仁摩方面から車を走らせ、新大森トンネルを抜ける。
川の側に車を停めて、参拝開始。
境内入口は、南西向き。
階段を上り、鳥居をくぐると、広く気持ちの良い境内。
入口から見て、左手に拝殿、正面に相生の松、右手に亀石がある。
相生の松は、樹齢三〇〇年。
元禄年間に、社殿が再建された時に植えられたもの。
拝殿は、重層式の入母屋造で、
江戸本所の亀井戸天満宮に倣ったもの。
寛政十二年(1800)の大火で類焼したが、
文化九年(1812)に再建されたもの。
拝殿内の天井には、
再建当時に円隣斉守休によって描かれた鳴き龍があり、
拝殿中央に正座して、拍手を打つと、反響して響くのだ。
拝殿の後方には、垣に囲まれた本殿がある。
創祀年代は不詳。
延喜当時には、現在地の西4Kmにある
仁摩郡馬路の高山(城上山)に鎮座していたが、
永享六年(1434)大内氏により
大森町の香語山(愛宕山)に遷座。
その後、天正五年(1577)、毛利氏によって、
現在地に遷座されたという。
境内の亀石について(境内の案内板より)。
延喜年間、当社が馬路の城上山に鎮座していた時、
崇敬者から、貝の化石と、海亀の姿の石が奉納された。
永享年間に、当社が愛宕山へ遷座した時は、二石は愛宕山へ運ばれたが、
天正年間に、現在地へ遷座した時には、亀石を忘れてしまった。
亀石は「自分の甲は、城上神社の紋所だから、行かなければ。」と
自力で山を下ったが、自分の重さで山麓の川底に沈んでしまった。
それから、その川側を通ると、
川の中から、不思議な音、小豆を研ぐような音が聞えるようになった。
物好きな人がこれを引き上げ、
大正時代まで道端に置かれて小豆石と呼ばれていた。
ある夜、この石が田中某の夢に現れ、
事の次第を打ち明けて、境内に落ち着くこととなったという。
ということで、当社の神紋は、亀甲なのだ。
当社の社号の読みを、
「しろかみ」「きじょう」などと思っていたが、「きがみ」らしい。
亀の神で、亀神(きがみ)なんだなぁ(←たぶん嘘)。
境内には幾つかの境内社が並んでいる。
社名は、天満宮と稲荷社しか確認できなかったが、
『神国島根』によると、以下の境内社があるらしい。
八重垣神社(素盞男命)、天満宮(菅原道真)、
大元神社(天之御中主神)、大歳社(大歳神)、
八幡宮(誉田別之命)、王子神社(建御名方命)、
稲荷神社(豊受姫大神)、愛宕神社(加久都知命)、
恵比須神社(事代主命)、東照宮(徳川家康)、春日神社(武甕槌命)。
境外社には、長砂神社(少彦名命)。
『平成祭データ』では、他に末社として、
厳島神社(宗像三女神)、比売許曽神社(下照姫命)が記されている。
この2社が境内なのか、境外なのか確認していない。
境内入口 | 境内に相生松 |
境内に亀石 |
稲荷社 | 亀石 |
拝殿 |
本殿 | 本殿 |
拝殿内天井の鳴き龍 |
天満宮 | 境内社 |
境内社 | 境内社 |
御参拝のしおり
御祭神大物主神又は、大黒様の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは倭大物主櫛瓱魂命と申し上げます。この神様は神代の昔、少彦名命と協力して、この国土を拓き、農・工・商すべての産業開発・方除・治病・禁厭・造酒・製薬・交通・航海・縁結び等、世の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であらせられます。 当神社の社伝によりますと、もとは石見国東海岸にある馬路(まじ)の高山に鎮座。航海安全と海防の神として信仰をあつめていましたが、永享六年(1434)に大内氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語山に遷し、天正五年(1577)に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷して城上神社大森大明神と申し上げていました。大森の名は此の地に一本の大樹が森をなす如く大きく繁茂していて、この大樹を中心として大いに信仰をあつめたもので、この名が付けられたといわれ、一方大森町という地名もここから称えられたものと伝えられています。おしくも寛政十二年(1800)の大森町の大火で社殿と共に類焼してなくなりました。 年に一回行われます秋の大祭の御幸祭の御幸地は一キロメートル程離れた長砂(たかさご)という飛地境地内でありまして、ここは少彦名命をまつる天真神社長砂大明神がありまして、大物主大神が世の幸福を増進するために少彦名命と御相談される御幸祭とされて現在も続けられています。 −『平成祭データ』− |