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意多伎神社
おたきじんじゃ
島根県安来市飯生町679
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式内社 出雲國意宇郡 意多伎神社 |
飯生(いなり)町にある。通称、飯生明神。
地図には、稲荷神社とあった。
鳥居から階段を上り、神門をくぐると大きな石の狛狐がある。
現在は、境内に稲荷神社があるが、以前は、稲荷が信仰の主体だった。
もちろん、古代は、意多伎が主体だったのだから、元に戻したのだ。
創祀年代は不詳。
式内社・意多伎神社に比定されている古社。
出雲国風土記に「意陀支社」が二社あるが、その一社目。
大国主大神が当地方で人々に産業を教えられた時、
長期に渡って、この意多伎山に御滞在になったという。
意多伎は「於多倍」であり、「お食べ」。
穀物に関する神であるという。
今でも田圃の中に「飯盛」という場所があり、保食神を祀っているが
そこで、大神自ら飯を炊かれたと伝えられている。
また赤崎には牛の森という地があり、
大神が耕作に使われた牛の霊を祀る。
日假屋山は、大神が耕作の際に休息さえたところという。
相殿の御譯神社は、式内社・同社坐御譯神社。
出雲国風土記に「意陀支社」が二社あるが、その二社目。
「御譯」とは「教え」の意味で、導きの神であるという。
明治四十一年、
飯生字一位森に鎮座していた一位神社(日神荒魂神)を合祀した。
境内社の稲荷神社は、『神国島根』では「食師神社」。
『式内社調査報告』では、本社に合祀されていると記されている神社だが
出雲国風土記記載の食師社である。
その他の境内社は、太田神社、天満宮、日吉神社、愛宕神社らしい。
鳥居 | 階段上から |
随神門 | 拝殿 |
本殿 |
本殿横の境内社 | 太田神社 | 境内社 |
境内の稲荷社、参道に狐がきれいに並んでいる |
意多伎神社(オタキジンジャ) 安来市飯生(イナリ)町鎮座 意多伎神社由緒略記 (一)御祭神 本殿 大国魂命、大田命 若宮 倉稲魂命 (二)由緒 当社は西暦七二四年(奈良時代初期)に勘造された出雲風土記(七一三年)や延喜式(九二七年)等に記載されている社であり、創立は遠く神代にさかのぼり、飯生大明神として今日まで顕然として栄え、崇敬者は出雲、伯耆にまでいたり、数千を数え、無上の崇敬と信仰をよせてきた社である。 意多伎神社の祭神・大国魂命 神代の昔、大国主命は、国土を開かんと、この地においでになって、人々を導き、朝夕自ら鍬、鋤をとられて、農耕をすすめられたと伝えられている。この里はよほど地味が豊かで、大神のみ心に叶った美しい土地であったであろう。出雲風土記の飯梨郷(イイナシノサト)のくだりに「郡家の南東三十二里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故飯成(イイナシ)と云う」神亀三年(西暦七二六年)に字を飯梨と改む。と見えている。大神は久しくこの地で農耕を教え医薬を授け、産業福祉の開発に力を尽し、人々の生活を安定して、平和な秩序ある社会を建設されたので、その功績の広大無辺であったところから、大国魂命と尊称して、この意多伎山に斉き祀ったのである。飯梨郷(飯梨及び利弘(トシヒロ)、実松(サネマツ)、矢田、古川、新宮、富田、田原などの村のこと)ともいう、飯生(イイナリ)(東かがみの文治六年四月十八日の条には、飯生(イイナシ)と見えている。(飯成、飯梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられ、又、郡家とは、今の松江市大草町六所神社附近の国庁を云い、三十二里は十七・一〇五キロで、丁度当地にあたる。) 御譯神社の祭神・大田命(相殿) 大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神である。大田神と称え奉るは、福縁を授け、衣食を守り給う時の尊称である、御譯とは教譯の意、又伎神として往来の人を守り、塩筒の翁として製塩の方法を教え、海上を守り、或はさいの神として夫婦の縁を結び、又置玉の神として寿命も守り給うなど人生の必要な事柄の守護神である。大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべての教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられた国津神である。最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。神幸式などで鼻高面をかむり、祓いするのは、この神をなぞらえたものである。 若宮稲荷にます倉稲魂命 元は本社に合殿として祀ってあったが明治四年の遷宮の際、別宮を建立して若宮と称し之に奉遷したもので、当社を食師(ミケシ)というのは、この地で大国魂命に食膳を調達せられた神故に、当社に限り、食師神社と称え奉っている。即ち衣食住の守護神であり、五穀の神として敬い奉っている。 (三)境内、山林、その他 この山を意多伎山(古語のオタベで、物を食べるの意)といい郷を飯成(イイナシ)村を飯生(イナリ)(古くはイイナシと呼んでいた)といい、又この社の周辺一体の田を稲積といっているのは、いずれもご祭神にちなんで付けられた地名で、大神が食事をなさったことを物語るものに外ならない。その他飯盛(イイモリ)、一鍬畑、釆盛(サイモリ)、牛の森、日仮屋山などの神跡地は、この附近に今でも多く残っている。 (四)祭礼 春・旧二月の初午祭と五穀祭(春の祭) 当日早朝境内の一隅を清め、いみ竹を立て、しめ縄を張りめぐらし、三つの釜を据え、諸事万端を整える。御供炊(カ)き奉仕者(以前は四名、現在は二名)は白装束に立ちえぼしをつけて祓いを受け、神火を奉じて炊き奉る。それより先に、三つの竹くだを釜に入れ、御神飯を炊く、終って本殿に献供、次に食師の社、続いて末社に献ずる、此のお祭りは、食師の倉稲魂神が、本殿の大国魂大神に御食をご調達になる古事にならって行われる当社に於て、最も大切な儀式であって、創立当時から今日に伝承される五穀古伝祭である。又最初に入れておいた三つのくだも一諸に奉進し、今年の稲作のご託宣を受けると共に、五穀豊穣、厄災消除、家内安全を祈請するお祭りであり、終日神楽、舞楽を奉納する。 秋・十月九日 大祭 前夜祭を執行し、数年前までは部落の若衆により、盛大な演芸会も大変にぎやかに催され、境内は観客でにぎわった。当日、神田所作の新米にて御神飯、祝餅を調達し、その他海川山野の種々のものを献供して、国家の隆昌、氏子崇敬者の繁栄を祈り、終日神楽、及び小学生女子四人による舞楽の奉納をする。神幸式もかっては執行していたが現在はない。以上は略記であるが、遠く神代創立の由緒深い社である故、旧藩時代の武将の崇敬も厚く、松平家より釣燈籠等の奉納があり、又出雲国造、千家、北島両家も、古よりご参詣になり、高張、奉幣等の奉納がなされている。前回の遷宮には、古例によって、両家より参拝され、奉納の儀を執り行った。(その他の例祭については略す) 当地開拓の祖神、大国魂命を産土の神として主神に、そして大業補翼の神大田命、又衣食住の神として、うがのみたまの命、これら三神が、ゆかりも深い意多伎の山に鎮座ましますことは、当然のことであり、又神話の実証としてもまことに尊い極みである。このようにして大神の神話や伝説がこの地に、ゆたかに語りつがれて行くことは、在住の人々の誇りでもあり、この里々に今も尚、神々の生活の息吹が、身近に感じられるゆえんである。宮司神白明尚記 −『平成祭データ』− 意多伎神社
オタキノカミノヤシロ。九條家本・武田家本・
吉田家本とも「意多伎神社」と記し、武田家本・吉田家本
ではこれをイタキと訓ませてゐるが、新訂増補國史大系本
では神祇志料によつてオタキと改めてゐる。風土記の「意
陀支社」に相當するが、風土記でも『出雲風土記鈔』や『萬
葉緯』所収の出雲國風土記ではこれを「意陀底」と記して
ゐる。『雲陽誌』にはその名を見ず、『出雲神社巡拝記』
に至つて「飯生村(おたき山)飯生大明神、記云意陀支(おたき)社、式云
意多伎(おたき)神社」となる。明治以来この飯生大明神が式内意多伎神社で
あるとして、社名を改め、今日に至つてゐる。大國魂命・大田命・倉稲魂命をまつる。大田命 は式にいふ「同社坐御譯神社」の、倉稲魂命は風土記不在 神祇官社の「食師社」の祭神であるといふ。これはすでに 『出雲神社巡拝記』に見えてゐるところであるが、これに 對して内山眞龍の『出雲風土記解』には、「意陀支社、鈔 本伊陀氐、式云佐久多神社、同社坐韓國伊太氐神社と有。 意陀支と伊太氐を合考るに、伊太支社にて、支はケリの約 り、五十猛 也。意ハ於のかなにて、伊にあらず。意陀支ハ 大猛にて五十猛も同。紀伊國三井寺の北に伊太祁曾社有。 同神也」と説いてゐる。『出雲國式社考』にはこれを紹介 し、「意多支は大猛にて五十猛と同じといへれど、五十 猛神を大猛神と申せる事、餘に例もなければ、此考も宜し とも云がたし」としてゐるが、明治の『特選神名牒』には 「五十猛を大猛と唱へ奉るはいかがながら、この御同社に 御譯神の坐を思へば、五十猛神は韓國によしあれば、眞龍 が説によりてなほ熟く考ふべきなり」としてゐる。 創立年代不詳であるが、社伝としては風土記、 飯梨郷の条に見える大國魂神降臨説話に結び付けてこれを 説いてゐる。すなはち「飯梨郷、郡家東南卅二里、大國魂 命天降坐時、當此處而御膳食給、故云飯成。神亀三年改字飯梨」とあ る、その大國魂命が降臨されたところであるといふのであ る。そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教へ、医薬を授 け、産業を拓きたまふた。この大國魂命を祀つたのがすな はち当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなはち 食物を食するの意であるといふ。また合殿神に食師社がある るのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと 伝へてゐる。 同社坐御譯(ミヲサ)神社
現在では「大田命」として前記意多伎神
社に合祀してゐる。『出雲神社巡拝記』にはこれを飯生村
飯生大明神合殿の稲立大明神であるとし、「祭神おほたの
命、當社太田神とハ猿田彦大神の御事也」としてゐるが、
『出雲式社考』には「風土記に是も意多伎社とあり、在
所未レ考。異國の語を此國に通ずるも、神の御所爲ならで
は初はなりがたき事なれば、此神は其事を始め給ひ守給ふ
神にや。五十猛神は韓國によしある神なれば、此社や五十
猛神にもあらむ。」と説いてゐる。社伝では、「御譯」とは
「教へ」の意であり、この神は大國魂命に仕へ、開拓の先
立ちとなつて教への大役を果たされた神だとなつてゐる。
−『式内社調査報告』− |