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石上布都魂神社
いそのかみふつみたまじんじゃ
岡山県赤磐市石上字風呂谷1448
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式内社 備前國赤坂郡 石上布都之魂神社 |
岡山県赤磐市の西の端。
北3Kmに国道484号線、東3Kmに27号線、
南5Kmに53号線があり、その中央部の山中にある。
岡山市内からは、国道53号線を北上し御津方面へ。
津山線金山駅あたりで、金川大橋を越えて、東へ。
2Km行った伊田で北上し、平岡西を越えて、5Kmほどの位置。
なかなか、わかりにくい場所にある。
道路脇に社号標があり、少し登ると鳥居。
その先に駐車場があるが、そこから階段の参道を登ると境内。
境内左手の山道を500mほど上ると本宮があり、
結界された磐座が鎮座している。
祭神は、現在素盞嗚尊となっているが、
明治までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った「布都御魂」であった。
この剣は、古事記では、「十拳剣」、
日本書紀には、「十握剣」「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」。
「布都御魂」は、物を切断する「フツ」という音。
「十拳剣」「十握剣」は、その長さ表わし、長剣であったことがわかる。
「麁正」「韓鋤」は、半島からもたらされた剣。
「天蠅斫」は、蛇を斬った剣の意味とされている。
その剣で八岐大蛇を斬った時、その尾から叢雲剣が現われ、三種の神器となった。
比喩的に解釈すれば、渡来の製鉄技術による剣で、当地を平定し、
技術供与を受け、国産の剣の量産化に成功した事績と見る事ができる。
その後、崇神天皇の御代に、その剣は、大和国石上神宮へ移されたことになっている。
拝殿には、桐紋がついていたが、『神社名鑑』では、三つ巴。
境内には、茅の輪が設置されていた。
道路脇の社号標から車を入れ、鳥居横を通って、駐車する。
階段上の境内は、あまり広くはないが、左手待合所で、しばらく休憩。
社号標 | 参道鳥居 | 参道 |
茅の輪をくぐり、参拝後、撮影を開始。
本殿右手には、稲荷神社が祀られていた。
拝殿 |
社殿前の社号標 | 本殿 | 境内社稲荷神社 |
境内左手に山へ続く道があり、500mほど上ると、本宮がある。
参道途中に鳥居があり、汗を滴らせながら上る。
一段高く祀られた小祠が、本宮本殿。
その背後に巨石(磐座)が幾つかあるが、
磐座周囲は、針金で結界されて禁足地となっている。
社殿後方に神泉があり、「いぼ水」として利用しているらしいが、
よく分からなかった。
本宮参道の鳥居 | 参道 | 参道上から |
本宮 |
当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡六座のうちの「石上布
都之魂神社」にあたり、備前国総社神名帳百二十八社の中正二
位と記され御神徳の高い神社である。現在御祭神は素盞嗚命であるが、江戸時代後期、寛政年
間に岡山藩土大沢惟貞が編纂の「吉備温故秘録」では「布都
御魂」明治初年編の「神社明細帳」「延喜式内神社・国史見在之神社」では「十握劒」を祭神と
記している。御祭神名の変更は、明治六年郷社列格の際と思われる。 いずれにしても素盞嗚命の大蛇退治の神話に起因する。日本書紀一書に「其の蛇を断りし劒 をぱ、號けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ。此は今石上に在す」また一書に「素盞嗚尊、蛇の韓鋤(からさひ)の劒を 以て、頭を斬り腹を斬る、(中略)其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる劒は、今吉備の神部の 許に在り。」さらに一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あまのははぎり)の劒を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と 記す。総合すると素盞嗚尊が大蛇を切った劒は「蛇の韓鋤の劒」「天蝿断の劒」あるいは「蛇の 麁正の劒」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。「韓鋤の劒」は韓から伝来した刀 の意・「天蝿断の劒」は蛇を切った劒、すなわち韻霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀ったのが布都魂神社である。 「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀の神代巻・旧事記・神社啓蒙旧事紀・天孫本紀、古語拾遺・ 言金抄などから「私に曰、此数書を以て参考ふるに、上古素盞嗚尊、蛇を断の剣は当社(注石 上布都魂神社)に在事明かなり、其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉るとあ れ共、当社を廃されしとは見へず、又延喜神名帳にも大和国と当国に布都魂神社載せられたる は、当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といひしならん、さすれぱ、当国の石上本社なることも分明なりし」と す。寛文九年(一六六九年)時の備前藩主池田綱政が山頂にあった小祠を造営復興し、延宝二年(一六七四年)には神道 衰之古事を知る人の少なきを歎き広沢元胤に命じ社記を作らせ(一巻)、社領二十石を奉納した。その後累代の藩主(綱政 →継政→宗政→治政→斉政→斉敏→慶政→茂政→章政)崇敬懈りなく廃藩の時に至る。この間の藩主交替時には必ず折紙が 奉納された。 神剣(蛇の麁正・別名蛇の韓鋤・蝿断劒)は大和(奈良県天理市)の石上神宮にお移ししたということは石上神宮にもこ のことが記されている。「布都斯魂大神 素盞嗚尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名なり。日本書 紀神代巻一書に、其断蛇劒、号曰蛇之麁正在石上宮也と見之、古語拾遺に、素盞嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天 十握劒(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、も と備前国赤坂宮にありしが、 仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・大 正十五年発行官幣大社石上神宮御由緒記) かくして神剣奉遷の後石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、明治七年水戸の 人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを 知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊 (これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。その時この剣を模して造ることを月山 貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が本神社に寄進された。明冶初年神社調に よって郷社となり、明治三十九年神饌幣帛料供進神社に指定される。明治四十三年火災によっ て貴重な棟礼等ことごとく消失、大正四年現在の位置に社殿を改築した。昭和二十年県社の資 格ありと認められた。幻の県社である。平成五年現拝殿を建立する。この神社は近郷では「神 社様(じんじゃさま)」と敬称し、疫病災(えやみ)を断つということ、安産、農耕、養蚕の守り神、子授かりの神として篤 く信仰されている。近年一宮の朱印を求める参拝者多くなる。 −リーフレットより− |