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吉備津彦神社
きびつひこじんじゃ
岡山県岡山市北区一宮1043

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備前國一宮 |
岡山市北区一宮にある。
国道180号線で、岡山市街地の西へ、
吉備線備前一宮駅の南、吉備中山の麓に鎮座。
中山の周囲を反時計回りに2Kmほど進むと、
備中一宮である吉備津神社が鎮座している。
つまり、吉備中山は、備前・備中の境にある。
中山の北部には龍王山(175m)、南部に茶臼山(160m)がある。
祭神は、「神社辞典」等には、大吉備津日子命以下が記載されていたが、
当社でいただいたチラシでは、主祭神は造化三神となっていた。
当社は、平安時代から備前一宮として崇敬されていたが、式内社ではない。
また、当社の創祀に関しては、一般には、
備後一宮・吉備津神社(広島)と同時期に、
備中一宮・吉備津神社(岡山)から分祀されたと見られている。
時期は、大化改新後、吉備国が備前・備中・備後に分かれた頃。
社伝ではそれよりももっと早くから存在していたとしている。
太陽・月星・磐座等の信仰の対象として、
古代より存在していたとしても不思議ではない。
吉備津神社からの分祀は、従来からあった祭祀の場に、
新たに大吉備津彦命を祀った可能性もある。
当社でいただいたチラシには、「元 気比太神宮」とあり、
気比比賣大神を祀っていたものだと説明されていた。
この気比比賣大神を、天照大御神であるとしているが、
単純に、気比(キビ)の姫神であろう。
当社の社殿配置は、太陽信仰の形を留めている。
夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む。
その直線後方に、神体山(中山・龍王山)山頂の龍神社がある。
当社が、「朝日の宮」と呼ばれるのはこの配置による。

−チラシより−
境内左手に、中山登山口があり、山頂への道がある。
鳥居をくぐり、参道を進むと、左右に亀島・鶴島神社がある。
ただし、なぜか鶴島神社の記憶がない。暑かったからか。
境内入口と吉備中山 |
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夏の盛、神門には茅の輪が設置されていた。
神門脇には、東洋一という笠石八畳の大燈籠がある。
階段を上ると社殿がある。
社殿は、拝殿・祭文殿・渡殿と並び、
拝殿の額には、「一品一宮」と書かれている。
後方には、御垣で囲まれた広い場所があり、
その中央に瑞垣に囲まれた本殿がある。
随神門 |
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随神門から社殿 ![]() | 拝殿額 「一品一宮 吉備津宮」 ![]() | 安政の大燈籠 ![]() |
社殿全景(一月の再参拝で撮影) |
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渡殿 ![]() | 祭文殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
本殿(一月の再参拝で撮影) |
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備前一宮 吉備津彦神社史略
当社の社殿の創建は、第十代崇神天皇の御代とされ、
大吉備津彦命を鎮祭する備前国の古社で、昭和三年には
国幣小社に列せられる等その由緒は史乗に赫々たる跡を
留めている。古くは歴代朝廷をはじめ、武門武将一般衆庶の崇敬頗る 厚く、天正年間の有名な高松城水攻にあたっては、羽柴秀吉 (後の豊臣秀吉)が、戦捷祈願に礼を捧げられており、 江戸時代に入っては池田備前岡山藩主、家老一門の鄭重な 待遇を受け、次々と造営修復が行われている。 然るに、昭和五年不慮の火災が起こり、華麗宏壮を誇った 社殿は、御本殿、随神門以外悉く炎上した。 氏子、県内外崇敬者の復興造営に対する奮闘努力により、 昭和十一年拝殿、祭文殿、渡殿、神饌所、脇門等主なる 建造物が竣成され、現代に至っている。 なお、平安時代の末期、諸国に一ノ宮の称が起るや、当社も 一ノ宮と称し、鎮座地の地名も神社に因んで一ノ宮と呼ぶに 至っている。 −境内案内より− 当神社は朝日の宮と称され、吉備之国最古の大社で古代信仰太陽、月星、泉、磐座、巨木 を仰ぎ、山は神体山にして巨大な磐座磐境を有し超太古時代は気比太神宮、吉備社、吉備 津神社、吉備津宮、朝廷直属の一品一宮の社宮として朝廷は勿論、諸民にも崇められて来 ました。社殿が出来たのは、天吉備津彦命神去りました崇神天皇六十年で、御神紋は太陽 と月の重なりあった金環色を表現した二重丸の中に、四葉木瓜(伊勢皇大神宮と同じ御神 紋)が入り、又九七の桐は本州一宮、天御中主大神を始め造化三神国産みの大元の神々 又国の崇祖神と仰ぐ天照皇大御神(古代当社では気比大明神、気比比賣之大神)を祀る社 であることが示され、亦御神紋十六菊は天皇家直の男神(天皇皇子)の方々、五七の桐は直 の女神の方々を祀る印とされていて、御祭神、由緒社格の深遠さを示しています。主祭神は天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神(造化の三神)。天之常立・国之常立神。伊邪郡岐・伊邪那美大神。天照大御神(気比大明神・気比比売大神)、月読大神、 素戔嗚大神、建日方別大神、大山津見大神、宇迦之魂大神、大国主命、事代主命、少名彦命、 神倭磐余彦天皇、天津神、国津神、八百萬神々等を祀り又、大吉備津日子命、御相殿には御子 吉備津彦命(吉備津武彦命)、孝霊・孝元・開化・崇神各天皇、彦刺日方別命、天足彦国押人命、 大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦命(鉄の神)、大山咋命、山頂 龍神社に王龍神(天の龍王神・地の龍王神)を祀り、本州(大八州)一品一宮、気比太神宮、 大社吉備津宮として県内はもとより近郷まで宗祖神、總鎮守としていかに崇められていた かがうかがわれます。 特に摂仕・子安神社は、いにしえより縁結び、予授け安産育児の守護神の社として崇められて来ました。社殿は、平成 元年三月末に修復完成し、立派な社殿に甦り、皆様方へのより厚き御加護お授けをお願いお祈り申し上げています。こ の他、稲荷神社は、龍王山を背後に控え古代五穀豊穣・金運・招福・商売繁昌稲荷大明神として崇拝され、方位によ り各地に造営され稲荷信仰として発展し両社とも霊験あらたかな社であると年々ご参詣になる方が増えています。 当神社八月二日・三日に行なわれます御田植祭、御斗代祭のお祭は当地はもとより全 国に至るまでの豊作並ぴに諸業繁栄をお祈りする御祭です。御幡献納祭は、稲作、製鉄の 技術も初めて当地、当神社に伝わり、そして全国に広まったという由来表現の神事です。 また、十月十七日の神嘗祭、亦例祭は天照大御神(気比比賣之大神、気比大明神)の標示 された大御手振により今迄の豊作の御礼を申し上げ、立派な御饌御酒種々の味物を捧げ る御祭で、その後行なわれる流鏑馬神事は来年に迎える夏の猛暑、其の後におこる大風など による大洪水などの災害による諸難諸病を大神様方々の御加護により矢で的を射て、来年 も、悪魔退散除去して戴き幸福に、平穏無事に過せるようにお祈りする御祭りで毎年執り 行われます。 (注)当社が昔、気比太神宮と言われていたことを伝承者が伝えていましたが、古文書を松 田氏の部下に焼かれる前までは、上記の社名があったと思います。明治二十年項まで大守大 藤内家が宮司をされ、その後昔の分家延友の大守家が受け継ぎ明冶三十年項宮司をされ、 当時は大社吉備津宮吉備津神社(太郎太殿)と呼ぱれていた。昭和天皇御即位国幣小社昇 格の頃現在の吉備津彦神社と呼ぱれるようになったものと思います。 (現在も地名が吉備津彦神社の境内のみ吉備中山となっています。) 昭和六十一年十月神無月には、昭和天皇御座位六十年を記念し古来よりの神迎えの神事 を復活し以来毎年十月(神無月)一日天御中主大神の御許へ全国各地の宮、社の天津神、国津 神の神々を当社渡殿へお迎え奉斎し、超太古天照皇大御神(気比比賣大神、気比大明神)のし めされた祭祀の大御手振を受け継ぎ神嘗祭、例祭をご奉仕いたしています。そして十月三十一 日に各社へ神々をお送りいたしています。十月の期間中当社へ多数の 方々ご参詣、全国の神々様にもお祈りを捧げて下さい。そして盛大な古 代神事七十五大騰据(大嘗祭)の一時も早く復活、神々ヘの立派なお供 え、お祈りが出来ますようご協力、ご助成の程お願い申し上げます。 ○夏至の日は、伊勢二見ケ浦、夫婦磐又鳥居の中心より太陽が昇り、吉備津彦神社 も正面鳥居より太陽が昇り幣殿の御鏡に朝日が差込むよう社が造られています。 正月新年ご参詣のうえ おかげを載きご幸福を授かって下さい 一月中は玉垣内御本殿周囲四角の御末社も自由に巡拝出来ます。 社前広場前には磐座を有する車祓所も完備しています。 又、二月三日は節分祭、豆まき、五月第二日曜日は、元宮、奥宮磐 座祭をいたします。お申し込みのうえ多数ご参加、ご一緒にお祈り を捧げて下さい。お待ちいたします。 −チラシより− |
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