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迩幣姫神社
にべひめじんじゃ
島根県大田市三瓶町池田303
身はかくて うきぬの池のあやめ草 引く人もなき ねこそつきせめ
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島根県大田市にある。
大田駅から南東に12Kmほどの浮布池の畔。
浮布池は、三瓶山の西麓にある湖で、
昔、三瓶山の噴火でできたという。
三瓶山は、男三瓶(1126m)と、女三瓶・子三瓶・孫三瓶・大平山の総称。
三瓶山(男三瓶と子三瓶) |
三瓶山へ向かう道路から、浮布池への狭い道を入ると、
浮布池の北岸へ到着。
岸には、対岸の南岸に向かって、小さな木製の鳥居が立ち、
曇天のためか、湖水は白く光っていた。
迩幣姫神社の境内は、池の南岸近くにある島。
池の東側にある林道のような、木々の茂った道を
5・600m進むと、境内の南側へ車でも行くことができる。
浮布池、北岸 |
奥の島が境内 |
車でも境内近くまで行けるが、
せっかく湖に北ので、北岸に車を停めて、
湖畔を歩いて境内へ向かう。
普通、湖畔の道は、湖近く、湖水を眺めながら歩くようになっているが、
どういうわけか浮布池では、道と池の間に木々が茂り、
湖は、木々の間からチラチラとしか見えない。
期待していた眺めも、湖面を渡る涼風も感じることができぬまま、
境内入口に到着。
境内は島にあるのだが、小さな石橋で渡れる程度。
橋を渡り、少し登ると、すぐに社殿の後方。
境内入口の橋 | 少し登ると社殿 | 本殿 |
拝殿 | 拝殿内に「池宮」 |
縦長の境内に、小降りの社殿があるが、
どこにも社名を記したものが見当たらず。
拝殿を覗くと、扁額には「池霊」とある。
拝殿内側面の壁に、ようやく「迩幣姫神社」の文字を確認した。
拝殿の正面(北側)に、木製の鳥居が立ち、
浮布池へ下りる道がある。
当社の表参道入口は、池にあるようだ。
池の中に、鳥居の残骸のような石が転がっていた。
創祀年代は、社伝によると、
光仁天皇の御宇宝亀五年(774)三月十五日。
天武天皇の御宇白鳳十三(684)年甲寅四月十四日の大地震で
誕生した浮布池(古名は浮沼池)は、
近隣の人々にとって重要な水源となり、霊地として祀られたもの。
厳島大明神とも称され、現在、宗像三女神を配祀する。
式内・邇幣姫神社の論社だが、
『式内社調査報告』によると、当社を式内社とする意見は無いらしい。
ただ、当社由緒にのみ主張されている様子。
祭神の迩幣姫は、当地に住んでいた長者の娘。
伝承では、若者に変身した、池の主である大蛇に誘われ、
池に身を投げたという。
迩幣姫の衣が、浮き上がり、湖面が白くなったということから、
浮布の池という。
参拝当日は、まさに白い湖面だった。
山間部にあるため、曇りや霧の日が多いのだろう、
晴天では青空を写して青く輝くはずが、
雲を写して白く輝いている。
また、迩幣の名は、二瓶とも考えられている。
三瓶山の噴火により、三つの瓶が流出し、
一の瓶は川合村へ、二の瓶が当地に納まったという。
川合村物部神社境内には、一瓶社が存在し、
三瓶町には、当社迩幣姫神社(二瓶社)と三瓶社が存在する。
境内 | 鳥居から下ると | 浮布池、南側 |
大田市三瓶町池ノ原にある「浮布の池」は、三瓶山の噴火で堰き止められてできた湖である。
むかし池の原の長者の娘の迩幣姫が、美しい若者に誘はれ、この池に身を投げた。若者は池に
棲む大蛇であったといふ。姫の着てゐた衣が水面から浮きあがるかのように湖水が白く見え、
浮布の池の名となった。池の中の島に迩幣姫神社がまつられてゐる。 ○身はかくてうきぬの池のあやめ草 引く人もなきねこそつきせめ 藤原知家 −『歌語り風土記』柳瀬嗣朗著より− 人皇四十代天武天皇御宇白鳳十三年甲 寅四月十四日当大地震の時、佐比賣山西島崩落此 の水源下流を埋めしより霊地となる此水、多くの 沃田を潤す故に人民厚く水霊を崇敬し、四十九代光 仁天皇の御宇宝亀五年三月十五日社を創立して勧 請す。延喜帝其神徳を仰ぎ式に列し給えり。是即 ち式内邇幣姫神社之なり。当霊地は佐比賣村池田 川合村邇摩郡行恒長久村大字稲用延里、静間の各 水田を潤し海に入る。邇幣神社と訓する所謂は佐 比賣山の崩壊せし時大なる瓶三つ出ず。其第一の 瓶は川合村に流出し納まり、第二の瓶は此の池に 納る故に邇幣姫神社と号す。即ち水祖の神霊なる を以って人民信仰厚き神社なり。 第二の瓶の入りし処に古松あり。名称を御瓶の松 と今に伝う。万葉集巻七に君が為浮沼池の菱採る と、我染し袖濡れにけるかもとあるは即ち此霊地 なり。其後当領主加藤蔵内之助其神徳の炳為たる を以て社殿を再建し神田を寄附し給う。然るに世 移り時変るを以て社殿大破せるは明治五年申二月 六日、当地大地震の為め殿宇一切倒壊せり。故に 戸長大家松尾友治郎中興せんと去る明治十一年神 殿幣殿拝殿を新築の議出願再建せり。依て池水流 末及安濃郡中人民信仰の厚きを以て神社の壮麗な る事恰も厳島神社に次げり。第三の瓶は池田三瓶 谷に入ると。此郷は忌部宿禰司られし処にて忌部 の里と又高田の郷と称せり。文武天皇御宇大宝二 壬寅年改称高田の郷池田村と称せり。 −『神國島根』より抜粋− |