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波波伎神社
ははきじんじゃ
鳥取県倉吉市福庭654

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鳥取県倉吉市にある。
倉吉駅の北1Kmほどの福庭に鎮座。
日本海へ流れる天神川にそって走る179号線から少し東へ入る。
道路に南面して境内入口の階段があり、鳥居。
参道を歩くと、欝蒼とした波波伎神社社叢がある。
参道には燈籠が並び、寒椿の花の絨毯。
写真では、明るく写っているが、これは
早朝の暗い時間帯のため、シャッター速度が極端に遅くなっているため。
肉眼でも、暗い参道に、赤い絨毯が鮮やかで、
どこか、怪しく美しい光景に、少し鳥肌。
参道から階段を登ると神門があり、境内がある。
雨は降っていなかったが、社殿の屋根は黒々と光っていた。
創祀年代は不詳。
社伝によれば、祭神・事代主神が国譲りの際に、
「天逆手(あるいは天栄手)」を打って、
青柴垣に籠ったという、その宮であるという。
当社の西800mには、祭神の上陸に地「渡上の地」と伝えられる場所がある。
「波波伎」の社名から、祭神を「波比岐神」とする説もあるが、
通常は、「波波伎(ははき)」は「伯耆(ほうき)」と同じと考え、
伯耆国造の祀った神社であるとされている。
伯耆国造の祖・天穂日命を祀る社ではなく、
伯耆国造が祀っていた事代主命を祀るお宮。
このように伯耆国の総氏神として、古代より祀られた神社で、
当国第一位の神社、あるいは、それに次ぐ地位にあったのだが、
明治の社格では、郷社に列せられ、
伯耆一宮の倭文神社は県社に、伯耆二宮の大神山神社は国幣小社となった。
これに対し、氏子による社格昇格運動が起り、伯耆二の宮と称するようになり、
昭和になって、県社に列格された。
境内の東側に細い道があり、その奥に福庭古墳がある。
横穴式の装飾古墳ということだが、暗い境内に一人なので、
中まで覗いてみる勇気はなかった。
参道入口 ![]() | 参道 ![]() | 階段と神門 ![]() |
社殿 |
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社殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
福庭古墳かな |
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社号標 ![]() | 境内社 ![]() | 境内社 ![]() |
椿の散った参道と灯篭 |
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福庭古墳 古墳時代後期の古墳で、横穴式石室 を埋葬施設としている。墳丘は直径三 五メートル、高さ四メートルの円墳。 石室は、全長九・五メートル、幅二・ 二メートル、高さ二・三メートルの規 模。奥壁と側壁に大きな切石を立て、 一枚石の天井石を置いている。遺体を 安置する玄室に入ったところに石を横 長に立てているが、これは安置場所を 区画する石障と考えられている。石室 入口(玄門)の天井石には、扉を観音 開きに開閉する時に都合のよい感じの 段がつけられているが、装飾のためと 思われる。なお、奥壁の一部などに赤 色顔料が残り、装飾古墳の可能性があ る。七世紀前半代の築造と推定され、 鳥取県における古墳の終末段階を代表 する古墳である。 −境内案内− 式内社 伯耆神社 波波伎神社由緒 伯耆二の宮 (旧県社) 八重事代で主命[原文ママ]は大國主命の御子神で、國土経営の為此の地巡事の時、当社西方「ワタラガヒ」の地に上陸され当地方の開拓殖産に務められ、天孫降臨に当っては父神にすすめて恭順潔く國土を奉献して誠忠を儘され、父神に対して孝道を全うせられ献國後も永く皇室の護り神と成られました。其の荒神魂は青柴の巻籬内(今槙ケ木の字を充てる)に鎮まりました。之が当社御鎮座の根源である。 −『平成祭データ』− |
