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静間神社
しずまじんじゃ
島根県大田市静間町垂水1765
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式内社 石見國安濃郡 静間神社 旧郷社 御祭神 大己貴命 少彦名命 配祀 田寸津姫命 田心姫命 市杵嶋姫命 大歳神 若年神 倉稲魂神 |
島根県大田市にある。
JR静間駅の北東1Kmほどの静間に鎮座。
9号線から狭い道を入った場所。
社前の道が狭くて、境内全体を撮影できなかった。
境内の中央に、大きな社殿。
後方には、大社造らしき本殿。
資料によると「明神造」となっている。
本殿の左右に、境内社の小祠があり、
社前の道を挟んだ池の中に、もう一つの小祠。
どの祠が、どの社かはわからないのだが、
『平成祭データ』には、
大歳社(大歳神 若年神)と枯木社(倉稻魂神)の名が載っている。
『神国島根』には、
垂水八幡宮、宇賀御魂社、東照宮の三社が記されている。
社伝によると、光孝天皇仁和二年(886)二月八日の創祀。
もとは、魚津漁港にある「静之窟」の中に祭られていたが、
延宝二年(1674)六月二十七日、
高波により崩壊したため、現社地(垂水山)へ遷座。
式内社・静間神社に比定されている古社。
社殿 |
本殿 | 拝殿 |
本殿左の境内社 | 境内前の池の小祠 | 本殿右の境内社 |
境内のある垂水山の北、魚津漁港の隅に、
「静之窟」(しづのいわや)がある。
漁港の堤防が切れた西の端。
2つの入口があるのだが、
当日は、入口にロープが張られて入れないようになっていた。
内部の崩落が激しく、危険なのだそうだ。
北側の入口からみると、奥に鳥居と、万葉歌碑が立っているのが見える。
「静之窟」は、
万葉集巻三の生石村主真人による歌
「大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経」
(おほなむち すくなひこのいましけむ しつのいわやは いくよへにけむ)
に詠まれた「志都乃石屋」と考えられている。
ただし、島根県邑南町の志都岩屋神社や、兵庫県高砂市の生石神社も
その伝承地となっている。
静之窟 |
静之窟 |
左の穴 | 右の穴 |
静之窟沿革
静之窟は『万葉集』巻二に「大なむち、 少名彦のいましけむ志都の岩室は幾代経ぬ らむ」(生石村主真人)と歌われ、大巳貴命、少名彦命の二神が 国土経営の際に 仮宮とされた神話の洞窟である。 江戸初期まで洞窟の前には滝の前千軒と いう集落があったが、明暦二年(一六五六 年)四月の大津波で一瞬にして海中に没し たと伝えられる。 窟内は奥行き四十五メートル、横幅三十 メートル、高さ十五メートルほどあり、中 央に万葉歌碑が建てられている。 近くの垂水集落には、大巳貴命、少名彦命 の二神を祀る静間神社がある。 −案内板より− 大田市指定天然記念物 静之窟 一所
(平成四年十二月十六日指定)
静之窟は大田市静間町魚津の海岸にあって、古 く石見地方の国造りに力をあわせて努力された 大己貴命(大国主命)と少彦名命の二神の仮の住ま いであったとの伝承があり、洞窟は奥行三十八m、 幅十八m、高さ十六mに達し、洞底は清浄な海浜 に覆われ、現在では波浪が直接侵入することはま れであろうと思われる。 門口は大小二箇所あるが奥で一つになった岩屋 がある。 この岩屋を古くから静之窟といい伝えている。 洞内の内壁や天井には、主として軽石質の火砕 岩が露出しており、ほぼ南北方向に走る節理もし くは小断層が何本か見られる。窟は、侵食に弱い 部分がこれらの弱線に沿って選択的に侵食が進ん だ結果生じた海食洞である。 中央には大正四年に万葉歌碑がたてられ、歌人 生石村主真人が詠んだ「大汝少彦名のいましけむ 志都の石室は幾代経ぬらぬ」(書は千家尊福)の 歌碑(高さ三m)が建っている。「静之窟」の題 字は徳川家達である。 −案内板より− 案内により、若干の違いがあるが、原文のまま記載。
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【 静間神社 (大田市) 】