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多伎神社
たきじんじゃ
島根県出雲市多伎町多岐字笠無639
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式内社 出雲國神門郡 多伎神社 |
簸川郡出雲市(旧多伎町)にある。
出雲から9号線を西へ進み、神西湖を越えて、多伎町へ。
JR小田駅で、左折(南下)し、線路を越えて、
多伎中学校・小学校と並んだ地域の南を走る道路へ。
中学校のやや東に、脇道があり、その先に鳥居が見える。
鳥居をくぐって参道を進むと、右にカーブして新しい鳥居のある広場。
階段上に境内がある。
周囲の森は鬱蒼とした雰囲気だが、境内には木が少ないようだ。
境内拡張・整備のためだろう。
創祀年代は不詳。
式内社・多伎神社に比定された古社であり、
式内社・同社大穴持神社を合祀した神社。
一説には、出雲国風土記の多伎枳社を相殿に祀るとも考えられ、
「三社大明神」とも称されていた。
祭神・阿陀加夜努志多伎吉比賣命は、記紀に登場しない出雲の土地神。
明細帳では、「多伎吉」との音の類似から宗像三女神としているようだ。
当社は、出雲国風土記記載の「多吉社」「同社」にあたり、
同書「多伎郷」の条には、
「所レ造二天下一大神御子
阿陀加夜努志多伎吉比賣命坐之 故云二多吉一
神亀三年改二字多伎一」
とある。
もとは、外半場元宮という地に鎮座していたが
延享二年、現在地に遷座した。
相殿の式内社・同社大穴持神社は、
もとは、若宮原という場所に鎮座していたという伝承があり
天平年中から延喜の頃に、当社に合祀され、
延喜式では、多伎神社の「同社」と記されている。
参道が入口あたりで右折して広場に向かい、
新しい鳥居をくぐって階段を登ると境内がある。
ただし、参道をまっすぐに進む古い道もあり、
その先には石段の上に、平地となっている。
昭和12年、境内拡張が始まり、昭和33年に現在の社殿に遷宮した、
その旧社殿のあった場所だろうか。
境内周囲には、幾つかの境内社があるが不明、
社殿左後方の丘の上にある境内社は赤い鳥居と狐で稲荷と分かる。
他には、荒神社・大山神社があるはずだが。
参道の鳥居 | 境内入口 |
境内 |
社殿 |
社日? | 本殿 | 不明 |
不明 | 稲荷社 | 不明 |
平地に狛犬があった。旧社地? それとも境内社跡 |
阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀り、
大己貴命を配祀する。この比賣は記・紀に見えない神である
ことから『雲陽誌』では「阿陀加夜努志命・大己貴命・多
伎吉比賣命坐す」として、一柱の神名を二分して独立した
二神とし、明治初年の「神社明細帳」では記・紀に比定す
べき神名のないため、多伎吉比賣の類音をもつ胸形三神の
「多伎都毘賣命・市寸島毘賣命・多伎理比賣」を祀るとし
て届出たものと思はれる。昭和十七年刊行の『鳥根懸神社
概説』(大日本神祇会島根懸支部編)もそのまま踏襲してゐる。 『出雲神社巡拝記』では「あだかやぬしたききひめの命」 とし、『出雲國風土記参究』(加藤義成著・昭和五十六年刊) では「多伎都毘賣命・市寸島毘賣命・多伎理毘賣命外一柱 を祀り、もと郷社。当時は恐らく阿陀加夜努志多伎吉比賣 を祀ったのを、神名の類似から多伎都毘賣命を祀るように なったものであろう」と説明してゐる。 尚、この比賣神であるが、出雲風土記意宇郡の不在官帳 に「阿陀加夜社」があつてこの祭紳も当社の祭神と同名で あることから、多伎の地と何らかの開係があることが考へ られるわけであるが、前記『参究』には「神名は意宇郡の 出雲郷(アダカヤ)の守護神であったのを、後にこの多伎に来て鎮まら れた神の意であろう」と記されてある。思ふに父大神大穴 持命の御輔導を受けて多伎郷の開発に功の多かつた神であ らう。大己貴命は同社大穴持神社の祭神である。 明治五年郷社に列せられた。 −『式内社調査報告』− |