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美和神社
みわじんじゃ
岡山県瀬戸内市長船町東須恵字広高山1064
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岡山県瀬戸内市にある。
長船駅から南東へ6Kmほどの広高山に鎮座。
千田川に沿って83号線を東へ進み、
39号線を2Kmほど南下すると、広高山山頂へ向う道がある。
その道をウネウネと登ってくると当社境内に到着する。
山道や林道のような細い道を覚悟していたが、
舗装されて走りやすい車道の参道だった。
その参道の途中、車道の側に鳥居が建っている。
この鳥居は、もとは西須恵に建てられており、
神体山広高山(三和ノ峰)を遥拝する鳥居であった。
冬至の日には、広高山山頂から太陽が昇る位置であったが、
道路拡張のため、ここに移転されている。
社前に到着し車を降りたが、
参拝は、正月三日の早朝で、まだ日も昇っていない頃。
山頂近いせいか、風が強く吹き荒れる中、
撮影できる明るさになるまで待つ。
境内から瀬戸内海を見渡すことができ
天気が良ければ、小豆島の大観音も見えるらしい。
だが、到着した時は、まだまだ暗く、
しばらく震えながら眺めていたが、
曇天のため、何が見えるのかすらわからない状態。
ようやく明るくなってきたので参拝開始。
神門をくぐると綺麗な境内で、中央に社殿がある。
創祀年代は不詳。
大和国大神神社から勧請された古社であるという。
鎮座地である東須恵や西須恵周辺には、築山古墳をはじめ
数百の古墳や、須恵器窯跡が存在し、
古代から開発されていた場所らしい。
当社は、明治までは広高八幡宮と称していたが、
明治初年の式内社調査の結果を受けて、美和神社という古称へ改称。
広高山は、古来「三和ノ峰」と呼ばれ、
東南の榊谷を「美和の井」と呼ぶことから、
式内社・美和神社と考えられている神社。
広高山には、神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。
神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、
皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、
北に向かって泳ぎ尻海に上陸。
さらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えたという。
須恵の住民は「白鷹」を葬り、
山の名を「白鷹山」と呼ぶようになったが、
訛って「広高山」になったという。
境内には、いくつかの境内社。
本殿の左右に、武甕槌神社と日吉神社。
本殿後方に、左から若宮神社、御輿蔵跡、稲荷神社が並んでいる。
また、境内前の広場に広高神社遥拝所がある。
社前の案内板によると、当社の北150mのあたりに
祭祀遺跡である磐座があるらしい。
今、地図で確認すると、そこまで道があるようだが、
参拝時に存在を忘れてしまい、写真がないのだ。残念。
参道の鳥居 |
境内 |
神門 | 神門から社殿 |
拝殿 | 拝殿 |
本殿と武甕槌神社 | 本殿と日吉神社 |
広高神社遥拝所 |
若宮神社 | 御輿蔵跡 | 稲荷神社 |
境内から瀬戸内海 |
美和神社 式内社 元郷社
長船町東須恵広高山に鎮座
−社前案内板より− 美和神社のしおり
美和神社は延喜式神名帳(967年)に記載されている古社で祭神は大物主神です。 当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を勧請したと言われております。しかし、いつ勧請したのか明らかではありませんが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われていますので7世紀前後のことと思われます。 鎮座している所は標高166メートルの広高山の山頂です。広高山は三和の峰とも呼ばれていました。 当社は永禄年中(1558年〜1570年)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われており明治3年もとの美和神社に復し今日にいたっています。社宝に文字瓦があり、長船町重要文化財に指定されています。この瓦にはつぎの文字が彫り込まれています。「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」 主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」です。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当です。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかります。慶安元年(1648年)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3体、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっています。当時の祭典がたいへん盛大であったことがわかります。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りする行事が大昔から現在まで続いています。 氏子は東須恵と西須恵の人々ですが、美和神社を信仰していた人々は邑久町の今城地区を除いた全域と、牛窓町小津地区に及んでいました。明治初年頃まではこれらの地区の方が交替で大祭の神幸行列に参加し神輿をかついでいました。広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説があります。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸しました。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死にました。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり後になまって「広高山」になったと言われています。当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸があります。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されています。しかし現在は使用しておりません。 −『平成祭データ』− |