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大神神社
おおみわじんじゃ
奈良県桜井市三輪1422
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式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗 |
奈良県桜井市にある。
桜井線・三輪駅の側に大鳥居があり、
三輪山方向(東)へ進むと参道入口の二之鳥居。
何度か参拝しているが、早朝から参拝が絶えない神社。
朝の参拝は澄んだ空気を感じて気持ちが良い。
砂利の参道を進むと、階段があり
階段を上ると注連柱、奥に大きな拝殿がある。
現在は注連柱だが、江戸時代までは楼門があったらしい。
当社には本殿はなく、三輪山(三諸山、467.1m)を祀る神社。
三輪山は典型的な神奈備山で、山中には幾つかの磐座がある。
また、拝殿奥に、社伝に「一社の神秘なり」と記された三つ鳥居があり、
そこから奥は禁足地となっている。
『古事記』によると、
大己貴神と少彦名神が、協力して国造りを行った後、
少彦名神は常世国へ去ってしまう。
残された大己貴神が愁いていると、海を照らして神が出現し、
「よく我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。もし然らずは国成り難けむ」
「吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ」と。
『日本書紀』には、大己貴神が
「汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」と問えば
「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」と答えたとある。
この海の中から出現し、三輪山に鎮まり給う当社の神が
大己貴神の和魂(幸魂奇魂)である大物主神。
おなじく『日本書紀』によると、
崇神天皇五年、国中に疫病が蔓延した。
そこで天皇は神浅茅原にて八百万の神々を招いて占いをした。
この時大物主神が、天皇の姑・倭迹迹日百襲姫命に神がかり、
「もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平ぐだろう」告げた。
さらに天皇の夢に出現し、
「わが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平ぐだろう」と告げた。
そこで天下に告げて大田田根子を探したところ、茅渟県の陶邑にて発見。
大田田根子に誰の子かと訊ねたところ
「父は大物主大神、母は陶津耳の娘・活玉依姫」と答えたので
大物主神を祀る祭主とした。
後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になった。
この神は昼には現れず、夜だけ現れた。
倭迹迹日百襲姫命が夫に、姿を見たいと願ったところ
あしたの朝、あなたの櫛函に入っているので驚かないでと告げた。
朝、櫛函を見ると、美しい小蛇が入っていた。
倭迹迹日百襲姫命が驚いた途端、蛇は人の形となり
大空を飛んで三諸山へ去っていった。
倭迹迹日百襲姫命は、悔いて箸で陰部を撞いて死んでしまった。
ゆえに、葬られた墓を「箸墓」と呼ぶ。
さらに『日本書紀』によると
雄略天皇六年、天皇は少子部連スガル(蜾蠃)に、
三輪山の神が見たいので、捕って来いと命じたところ、
少子部連スガルは三輪山に登り大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒していなかったため、
大蛇は雷のごとき音をたて、目を輝かせてたという。
このように、当社祭神大物主神は蛇神であり雷神なのだ。
また、大物主神は密かに陶津耳命の娘・活玉依姫のもとへ通い、活玉依姫が妊娠。
父母は怪しんで、針を苧玉巻(おだまき:糸を巻く玉)につけ、神の裳にかけさせた。
明朝、その糸を辿ると、三諸山に行き着いた。
糸を巻いて輪にしたものが三丸(三輪のこと)残っていたので三諸山と号し、三輪という。
三輪駅の西に大鳥居がある。かなり大きい。
桜井市内を歩いているとあらゆる方角から目に入る。
大鳥居 |
参道入口二之鳥居 | 境内 |
境内 |
拝殿 |
拝殿は、1999年秋に新しく修築された。
5月に参拝した時は、緑のシートで覆われていたので、
再度、奈良に行き、撮影してきた。
拝殿奥に三つ鳥居が見えるがうまく撮影できない。
平成九年〜十一年修造中の拝殿 | 神楽殿 |
三輪明神縁起 当神社の神体山三輪山に鎮り坐す御祭神大物主大神は、世に大国主神(大黒様)の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは倭大物主櫛甕魂命と申し上げます。古典の伝えによりますと、神代の昔少彦名命と協力してこの国土を拓き、農、工、商、すべての産業開発、方除、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。 後にこの神様は、御自らの御思召しによりまして、その御魂(幸魂、奇魂)をこの三輪山(三諸の神奈備)に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎しております。それ故に、神殿を持たない、上代の信仰の形をそのままに今に伝えている我国最古の神社であります。 この三輪の地は古く大和の文化の発祥の地で政治、経済、文化の中心地でもありました。三輪山麓を東西に流れる初瀬川の水路の終点に、日本最古の市場であります海石榴市が八十のちまたとして開け、又、南北に走る日本最古の産業道路である山の辺の道と共にこの三輪の地は交通の要所ともなったのであります。 第十代崇神天皇の御代には文化も全盛を極め、更に中古からは大和国の一の宮となり、二十二社の一つとして上下民衆の厚い信仰を集めてまいりました。又中世に於ては「三輪流神道」と申します特殊な宗教哲学が生まれ、上古以来の信仰に一つの組織と哲学とを添えることになりました。 この三輪山は昔から倭青垣山、また三諸山、神岳(かみやま)、神山(みわやま)、などと申しまして、円錐型の周囲十六粁(四里)、面積350ヘクタール(約百万坪)の秀麗な山であります。古くから万葉集をはじめ色々な歌集に詠われ、山そのものが神殿であり、神霊がお鎮まりになるという所謂御神体山として崇ばれて参りました。又、古来、このお山の中心をなすものは古杉でありまして、「みわの神杉」と申し大変有名であります。『枕草子』の中で清少納言が「やしろはすぎの御社、しるしあらむとをかし」と云っておる程ですから、当時は「すぎの御社」と申してこのお山の杉がいかに有名であったかがうかがわれます。 三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべしや(万葉集) いまつくる三輪のはふりの杉社すぎにしことはとはずともよし(金槐集) 杉か枝をかすみこむれどみわの山神のしるしはかくれざりけり(千載集) 味酒を三輪の祝がいはふ杉手触りし罪か君に遇ひがたき(万葉集) 当神社は古来本殿をもちませんので、自然この拝殿が特に重要視されてまいりました。只今の拝殿は寛文四年に徳川四代将軍家綱公が再建したものでありまして、その技術の優秀なるため重要文化財に指定されております。この大きさは桁行二十一米(七十尺)、梁行七米(二十四尺)で正面に五・五米(三間)一面の唐破風造の大向拝がついております。拝殿の内部正面の両側に神饌物を献る御棚が設けられて、うす暗い中に黒い深い光をはなっております。 この拝殿の左右に渡廊下で通じている二つの御殿があります。向って右手の御殿を勅使殿と申し、その昔宮中から勅使がみえた場合、この御殿で休憩いたしたものであります。又向って左側の御殿は、勤番所と申し、ここで参拝の信者の方々から申出られる御祈祷、御神饌などの受付を致すのでありまして、畳に坐って机をへだてて神職と腹蔵のない信仰の話が出来る様な古い設備が残っているのも、この神社の特色の一つであります。勅使殿、勤番所共に建立年代は不詳であります。 勤番所の東、拝殿の北側にあるのが、神饌所であります。神前におそなえする神饌一切の調理を行う処でありまして明治十一年の造営であります。 さて拝殿の東、拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切る地点、即ち拝殿の奥正面に建っているのが三ツ鳥居であります。この鳥居は三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされ、又一社の神秘とまで称せられた程神聖視されて来たものでありまして、三箇の明神型鳥居を一体に組合わせた形式であります。恐らくは中古以来出来上った形式であろうと云われておりますが、現在の鳥居は正面高さ三・六米(一丈二尺)、左右高さ二・六米(八尺七寸)で、昭和三十三年十一月に改修されており、昭和二十八年に重要文化財に指定されました。この三ツ鳥居の左右に連る瑞垣をすかして木下やみの禁足地の右手にわずかにうかがわれるのは、校倉造りに準ずる特殊な様式の神庫であります。創建年月は不詳でありますが当社の神宝類を納めた重要な建物であります。 −『平成祭データ』− 三輪大明神(大神神社)三輪山〔またの名三諸山〕にある。杜領百七十五石祭神 一座 大己貴尊〔一名大国主神、またの名大物主神〕 〔神主 高木左兵衛〕〔別当 平等寺〕 ただ一の鳥居・二の鳥居・楼門・拝殿などがあって神殿はない。里人が訝って造営した時、群鴉が啄き破り、かつ壊たれた木の所在が知れなかった。神は社を好まれないことが分かった〔『奥儀抄』に見える〕。 (『国花記』による)
(『日本紀』の)「神代巻」に、大己貴神の幸魂・奇魂が今日本国の三諸山に行こうと思う、とある。これが大三輪の神である。〔垂仁天皇六(二十五)年〕大水口宿禰に神がかりして教えて言った。太初の時に期って言うには、天照大神は悉く天原を治めよう。皇孫の尊(代々の天皇)は専ら葦原中国の八十魂神(天神地祇)を治めよう。我は親ら大地官(国魂・地主神)を治めよう、と。
(以上『神社啓蒙』による)
倭迹(迹)日百襲姫命〔(第七代)孝霊天皇の女、(第十代)崇神天皇の姑である〕は大物主神の妻となった。ところがその神は、常に昼は現われず夜に来る。命は、君は昼は常におられない、願わくばしばらくここに留まって下さい。明朝その威儀を見たい、と言った。太神が答えて、我は明朝汝の櫛笥(櫛を入れる箱)に入って居よう。どうか我が形に驚かないように、と言った。命は密かに怪しんで、夜の明けるのを待って櫛笥を見ると、美しい小蛇がいた。その長さは衣の紐ほどである〔蟠屈って三輪となっているので、この神は初め大和太神といったが、のちに三輪太神と号した〕。それで驚いて叫ぶと、太神は恥じて人の姿となって言った。汝は忍ばずして我を羞しめた。我は還り、汝を羞しめん、と。そして太虚を踏んで御諸山に登った。姫命は仰ぎ見て悔い、箸で陰を突いて薨じた〔そこで大市に葬った。その墓を号して箸墓というのである〕。『日本紀』(崇神十年)に見える。
(『大和名所記』による)
大己貴神は天羽車に駕って虚空を飛び、遍く妾を求められた時、節渡県に下りて潜かに大陶祇の女、活玉依姫に通った。その往来は人の知るところではなかったが、女が初めて妊娠した。父母は怪しんで、誰が来るのか、と問うと、神人がいて屋の上から来て共に枕を並べる、と答えた。そこでこれを見顕わそうと、針を苧玉巻〔糸を巻くと玉のようなのでいう〕に着け、神人の裳に懸けた。その糸を印にして、明朝往くに従って尋ね見ると、吉野山に入り三諸山に留まった。巻いて輪にした糸が三丸(三勾。三輪のこと)なお残っていたので三諸山と号し、三輪という〔その神名を大三輪太神と名づける〕。『旧事本紀』に見える。(『大和名所記』による)〔△思うに、以上二説は少し異同がある〕 ○印形(しるしのすぎ) 言い伝えでは、勢州奄芸郡の猟人が異女に逢って妻にし一児を儲けた。その後、母子の去った所は分からないという〔歌がある〕。 恋しくは尋ねてもみよ我が宿は三輪山もと杉たてる門 夫はこれを尋ね求めて神木の本で会い、三人同じく神となった。当社の祭に勢州奄芸郡の人が来て執行するのはその縁による。 (『国花記』による)
−『和漢三才図会』− |