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馬立伊勢部田中神社
またていせべたなかじんじゃ
奈良県橿原市和田町1400
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橿原神宮駅から東。畝傍中横の大歳神社から少し北の畑の中の杜。
本殿屋根に神紋がかすかに見えるが、確認できず。
境内から畝傍山が見える。
なかなか趣のある神社。
「三代実録」に、清和天皇貞観九年正月二十五日、
従五位下を叙されたとある古社。
境内説明では、「延喜の領幣から漏れた」とあるが、
日本神社総覧では、式内社・御歳神社に比定されている。
もとは、字舌宮の地に鎮座していたが、
慶長年間、飛鳥川の洪水で流出し、今の社地に遷座したという。
後に、八幡宮や春日明神を合祀し、御歳社であることが忘れられ
八幡宮と称するようになった。
本殿三間社の中央に八幡宮、左に豊受姫命、右に天児屋根命を祀るが
本来は、豊受姫命を主神とすると思われる。
明治になっても八幡神社と呼ばれていたが、
国史見在社であることから、大正八年、馬立伊勢部田中神社に復した。
社頭 |
境内 | 拝殿 |
本殿 | 境内から鳥居越しの畝傍山 |
馬立伊勢部田中神社 橿原市大字和田字大坪第四十番地 神格 村社 祭神 天児屋根命 豊受姫命 誉田別命 木像 当社、創立の詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。 「清和天皇貞観九年正月二十五日大和国正六位上、馬立 伊勢部田中神從五位下」とある。 されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く 不振の状況におちいったことが察せられる。 又、位置は現今大字和田にあれども社名は馬立伊勢部田中神社と称している。 昔から和田方の所伝によれば、当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長 年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと 然るに古宮の地は、古代豊浦小墾田宮の故地にして名称の起りも 故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかったであろう。 その地古宮付近に豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の 址なりと言うのも是亦附会したものと言わざるを得ない。 社殿の構造は三間社流造りにて、中央は八幡宮、左豊受姫社、右は 春日社を奉祀せり。 後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社と配祀し、後、八幡宮が 却って本社の地住を占め八幡宮と称するに至った。 徳川中世に至っても尚八幡宮と称し、(石灯籠)明治四十一年十月二日 にも村社八幡神社として指定された。 その後国史見在社の古名に復すべく出願し、大正八年十一月に前指 定を取り消して馬立伊勢部田中神社として指定された。 −境内案内より− |
【 馬立伊勢部田中神社 】