[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
藤森神社
ふじのもりじんじゃ
京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609
今こそ秋よ名にしおふ 春は花見し藤の森
|
|||
旧府社 |
京都府伏見区にある。
京阪藤森駅と墨染駅の中間に鎮座。
参道入口は南側。境内は広く境内社も多い。
参拝は二月の平日。
本殿は正徳二年(1712)、中御門天皇より賜った
宮中内侍所の建物と伝えられている。
創祀年代や祭神に関しては、諸説があるようだが、
中世に入って深草郷に祀られていた、
真幡寸神社・藤尾社・塚本社の諸社を合祀したものと考えられており、
現在、東殿に藤尾社、西殿に塚本社が合祀されている。
この真幡寸神社は式内社・真幡寸神社なのだろうか。
奈良朝末期の、称徳天皇(奈良末)の頃に崇道尽敬皇帝を合祀。
平安朝になって、淳和天皇(平安初)の頃に崇道天皇を相殿に祀る。
社伝では、神功皇后が朝鮮出兵から帰国後、
旗と武器を当地に納めたのが起源。
山城国紀伊郡藤尾の地(現伏見稲荷神社社地)に、
素盞嗚尊、日本武尊、神功皇后、別雷神、応神天皇、仁徳天皇、武内宿禰、
の七柱が祀られたという。
また、もとは本宮と新宮に分かれていたらしく、
本宮には不詳の祭神二座が祀られ、
新宮には崇道天皇、井上内親王、他戸親王の三柱の他に、
神武天皇、神功皇后、日本武尊、武内宿禰などの武神を祀って
「弓兵政所」と別称されたという。
神紋は「藤に一」。多分、社名からだと思う。
境内には、幾つかの塚が見られる。
祭神を見ると、祇園+八幡+御霊神社のような印象。
境内社に、王城鎮護の大将軍社や八幡宮がある。
ほかには、藤森稲荷、祖霊、吉野、廣田、諏訪、住吉、
厳島、熊野、天満宮、霊験天満宮など。
西側参道鳥居 | 南側参道 |
境内 |
社殿 |
本殿 | 拝殿 |
大将軍社 | 重要文化財の八幡宮 |
藤森稲荷神社 | 霊験天満宮 |
祖霊社 | 末社群 天満、熊野、厳島、住吉、 諏訪、廣田、吉野 |
藤森神社 素盞嗚命を守神とし、あわせて神功皇后、 日本武尊など十二柱におよぶ神々を奉祀し、落南 深草の産土神として崇敬されている古社である。 本殿は、正徳二年(一七一二)中御門天皇より 賜った宮中内侍所(賢所)の建物といわれる。 また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を 祀り、西にある大将軍社は、磐長姫命を祀る。 とくに、大将軍社は平安遷都のとき、王城主護 のため京都の四方に祀られた一つであるといわれ 古来より方除けの神として信仰されている。 社殿は、永享十年(一四三八)足利義教の造営 と伝えられ、重要文化財に指定されている。 なお、毎年五月五日に行われる当社の例祭 藤森祭には、甲冑鎧に身を固めた武者が 供奉し、また境内では「駈馬」が行われる。 これは、当社の祭神が、武神と称されること に因むものである。 −境内案内− 大将軍については、雑記『王城鎮護・大将軍』を参照。藤森神社縁起略誌 菖蒲の節句発祥の地 勝運と学問の神社 京都洛南深草の里に、平安遷都以前より祀られている古社にて、古来、朝廷より庶民までの崇敬厚く、歴史ある社である。本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。藤森祭は、毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神として信仰を集めている。日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしてあり学問の神としての信仰が深い。本殿(中座)素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇(以上7柱)。東殿(東座)天武天皇、舎人親王(以上2柱)。西殿(西座)早良親王、伊豫親王、井上内親王(以上3柱)。本殿は、神功皇后摂政3年(203)纛旗鎮座地。神功皇后凱旋し給うた後山城の国深草の里藤森を神在の清地として選び給い纛旗(軍中の大旗)を樹て兵具を納め塚を造り弓矢蟇目の法を修して神祀りし給うたのが当神社の起りである。延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。東殿は、天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。藤尾の地は今の伏見稲荷の社地である。永亨10年後花園天皇の勅により時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われた。舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の5朝の国政に参与され養老4年(720)には日本書紀を撰し又、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれた御方であられたから皇室藤原一門の崇敬厚く貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉りて官幣の神事が行われた。これが深草祭(藤森祭)の初めである。西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座、延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第2皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力をましてきたので親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願され出陣しようとしたところこれを伝え聞いて忽ち畏怖して乱は平定した。このような英武の御方であられたが延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中神去り給うた。延暦19年親王に崇道天皇と追號し塚本の地(東山区本町16丁目)に祀られた。不幸にしてなくなられた伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して2柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる3柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。天喜3年(1055)9月27日隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼し宮殿悉く烏有に帰したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月2日に再建せられた。建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。その後応仁の乱に社殿悉く兵火にあったので小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。 −『平成祭データ』− 旧府社。古くは藤森天王社とも言った。祭神は素盞嗚尊・日本武尊・神功皇后・別雷神・応神天皇・仁徳天皇・武内宿禰・崇道天皇(早良親王)・天武天皇・井上内親王・崇道尽敬皇帝(舎人親王)・伊予親王を祀る。創祀年代、祭神に諸説あるが、社伝によれば山城国紀伊郡藤尾の地に垂迹したといい、初め素盞嗚尊より武内宿禰までの七座。称徳天皇(奈良末)の代に崇道尽敬皇帝を合祀、淳和天皇(平安初)の時に崇道天皇を相殿に奉祀したとする。 −『神社辞典』− |
参道や境内には、神功皇后に縁の塚なども多い。
蒙古の将兵を納めた、蒙古塚 | 御神水、不二の水 |
子供の守り神、神鎧像 | 腰痛に効く、御旗塚 |
社号標 | 白皮松・白骨松ともいわれる 白松 | 神馬像 |