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晴明神社
せいめいじんじゃ
京都府京都市上京区晴明町806
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旧村社 |
京都市上京区にある。
有名な一条戻り橋の近くに鎮座。
堀川通に面して、東向きに鳥居が建っている。
鳥居をくぐり参道を進むと、もう一つの鳥居。
境内はそれほど広くはない。
陰陽師ブームのため、若い女性の参拝客が多いようだが、
地元の方々は、占い目当ての参拝が多い。
寄贈されている銅板には有名人の署名も多い。
以前参拝した時(平成11年)は社殿が改修中だった。
寛弘4年(1007)、安倍晴明の私邸跡に建てられた神社。
応仁の乱後、戦火や区画整理などで、衰微縮小していたが、
昭和3年(1928)、氏子の方々により整備改修された。
修築の終わった社殿を再度参拝した時に撮影してきた。
銅板が新しく、緑青がでていないので、少し味気ない。
堀川通の鳥居 | 鳥居 |
戻橋 | 境内の石柱 |
境内 |
社殿 | 改修中だった社殿 |
社号標 | 鳥居扁額 | 晴明井 |
晴明神社
晴明は朱雀、村上。冷泉、円融、花山、一条の六朝に仕え、天文学に通じ、移りゆく星をみて宮中の変革、遠国の吉凶を判断したといわれ、一条天皇の時に天文博士となった。寛弘二年(一〇〇五)なくなったが、その後、一条天皇によって晴明の邸址に当社が創立された。晴明の邸は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであったが、これを社域とした当社も、その後、たびらびの戦火によって衰えたままであったのを、近年晴明九町組を中心とする崇敬者によって復興され、年をおって現在の規模になった。 京都市
−境内由緒書き− 御事歴 御祭神晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤にして幼時より甚だ御賢明な方にて万の道に秀でられ、特に天文暦学の道に通達し神道自在の妙術を得られた。長ずるに及び天文陰陽博士として朱雀帝より村上、冷泉、円融、花山、一条の六代の帝の側近に仕へられ数々の功績をたて給ひ、中にも村上帝の御代進んで入唐し、城刑山にて伯道仙人の神伝を承け帰朝するや我国独特の陰陽道を確立され朝廷の祭政、民族生活の規範を定められた。今日我々が日常生活の基準とする年中行事、暦術、占法等、皆この時を創りとする。晴明公は御在世中より神の如き御高徳の方にて、移り行く星雲を見ては宮中の事変を予知し遠国の吉凶を判断されるなど朝野の信望を寄せられ、斯くて一条帝の御代寛弘二年九月二十六日、御年八十五にて薨去された。 晴明御霊神として祀られるや、我国陰陽道の祖として広く世の崇敬を受けられ祈るに任せて皆々奇偉なる霊験に浴し、方除守護、火災守護、病気平癒等疑ひなきものなり。 沿革 当神社は晴明公の邸趾にて寛弘四年(西紀一千年)時の帝、一条天皇が公の御偉業甚だ尊きに拘はらず位階低位にして、又晴明公は稲荷大神の御分霊なりとの由にて、御鎮座の勅旨をもつて創建された。古記によれば南北二丁、東西一丁(東は掘川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売)の広大な地域を社地とせられたが、応仁の兵乱後、豊臣秀吉の都造り、度々の戦火により社域縮少し、古書、宝物等も散逸し社殿も荒廃せるを以て晴明九町組なる氏子が中心となり各式年祭(嘉永六年、明治十一年、明治三十六年、昭和三年)には社地社殿を整備改修し、着々復興され現今の本殿、社務所等は昭和三年御大典記念事業として新築され、更に亦昭和二十五年には多年宿望の堀川通に面する境内地を拡張する等御神徳を讃仰する崇敬者の熱誠により逐次面目を備へつ、現在に至る。尚、晴明公御墓所は洛西嵯峨の地に在り(京都市右京区嵯峨角倉町)往古より天龍寺の所管なりし処、其の廃墟甚しく、昭和四十七年四月同寺より当社境内地として買得し、鳥居墓碑等を建立し懸案の整備事業を竣工す。 −『平成祭データ』− |
嵯峨角倉、長慶天皇陵南に晴明の墓伝承地がある。
陰陽博士安倍晴明公は本邦
易占天文暦学の開創にして
平安朝の中期朱雀帝より一
條帝に到るまで六代の帝に
仕へ移り行く星雲を見て宮
中の変事を豫知し遠國の動
静掌中にあるが如く神道自
在の妙術を得られ朝野の信
望極めて篤し斯くて寛弘二
年九月二十六日尊齢八十五
にて歸幽さるを以て翠嵐の
嵯峨の地を永延の奥城とし
て神鎮り奉ふ 後世に到るも奇しき尊き御 遺徳を鑚仰する者数多あり 茲に崇敬者相寄り荒廃せる 墓域の改修を行ひ永年の宿 願を建成す −石碑より− |
【 晴明神社 】