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飛鳥坐神社
あすかにますじんじゃ
奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
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式内社 大和國高市郡 飛鳥坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗 |
奈良県明日香村にある。
橿原神宮から、甘樫丘を抜けて更に東の突き当りの鳥形山に鎮座。
「日本紀略」によれば、
「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、
遷二同郡同郷鳥形山一依二神託宣一也」
とあり、元は賀美郷の甘南備山に鎮座していたとある。
甘南備山の場所は、当社の西北700mの雷岳か、
あるいは、明日香村橘と稲淵の境あたりと考えられているが、
所在地は不明。
そこから天長六年に現社地へ遷座したが、
当時は、もう少し南、酒船石の辺りではなかったかとも。
現在の祭神は、事代主神・高皇産靈神・飛鳥三日比売神・大物主神の
四座だが、異説も多い。
事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命 『大神分身類社鈔』
大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神 『五郡神社記』
事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命 『社家縁起』
『出雲國造神賀詞』には、
倭大物主櫛𤭖玉命を大御和の神奈備に、
阿遅須伎高孫根命を葛木神奈備に、
事代主命を宇奈提に、
賀夜奈流美命を飛鳥神奈備に坐して、
皇孫命の近き守り神とさせた、とあり、
大物主命・味鋤高彦神・事代主命・賀夜奈流美命の四座を合わせ祀ると思われる。
当社地を、天照大神の旧地、大和笠縫邑とする伝承があり、
近世では、「元伊勢」とも称していた。
参拝時は拝殿の修築中で残念。
入口鳥居の右手に「飛鳥井」がある。
飛鳥井に宿りはすべし、をけかけもよし 御水もよし 御秣もよし 『催馬楽』
階段上には、まら石が並んでいる。
入口の鳥居と飛鳥井(右側) | 飛鳥井 |
まら石・力石 |
境内社 | 拝殿 |
本殿 |
境内社の飛鳥山口神社も式内社。
大和に六社ある山口坐神社の一つだが、
元禄以後に飛鳥坐神社境内に祭祀されたもので、
元の鎮座地は不明。
あたらしい、飛鳥山口神社 |
境内社 | 境内社 |
境内社 | 境内社 |
金比羅・八阪 | 太神宮 |
稲荷 | 白鬚 | 境内社 |
飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村飛鳥。旧村社。 甘奈備の飛鳥の社とも。『延喜式』に「飛鳥坐神社四座並名神大。月次。相嘗。新嘗。」とある。祭神四座には諸説がある。出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天」とみえ、『日本紀略』に天長六年(八二九)、神託により、もとの雷丘から今の鳥形山へ遷祀したと。貞観元年(八五九)正四位下を授けられる。二月第一日曜日におんだ祭(お田植神事)があり、予祝儀礼と夫婦和合の所作がある。 −『神社辞典』− 国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、事代主神は恵美須神 の御名で世に広く知られております。大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であります。 古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、大国主神のもとに国土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神は その事を事代主神に相談され、そのすすめによって 国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ皇祖に仕 えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、皇室の近き守護神として事代主神とそ の娘神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神 霊を奉斎なされたのが当神社の創建であって、実に 神代から続いている大社であります。 前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする伝承とは決 して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振輿の神として、その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであります。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。 当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるように、皇室 の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、祈年祭には特に馬一匹を加え られました。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられます。 降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼門にあたる ため、特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十年(一七二五)に本社、 末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七八一)城主植村出羽守家利が再建し、 天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。 ※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅に七一座に 限られている。 −由緒書きより− |