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平安神宮
へいあんじんぐう
京都府京都市左京区岡崎西天王町97
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旧官幣大社 |
京都市左京区にある。
仁王門通と二条通の中間に大鳥居が立ち、
大鳥居の北300mに朱の応天門。
応天門をくぐると広い境内がある。
境内左右に額殿と神楽殿。
正面に外拝殿にあたる大極殿。
大極殿の左右に、白虎楼と蒼龍楼。
大極殿の前に、右近の橘・左近の桜があるが、
参拝した冬には、橘には覆いがかけられ見ることができない。
大極殿の奥に、内拝殿があり、その後方に流れ造の本殿があるが、
社殿内は「撮影禁止」だそうで、写真は撮らなかった。
創建は明治28年。
平安京を開いた桓武天皇を祀る、官幣大社。
皇紀2600年にあたる昭和15年、京都最後の天皇・孝明天皇を配祀。
つまり、平安京の最初と最後の天皇を祀る、平安京を象徴する神社。
明治28年は、平安遷都千百年紀年にあたり、
その記念行事として、京都で第4回内国勧業博覧会が開催され、
その目玉として、当社が建設されたという。
明治になって、東京へ首都機能が移転した後の
京都の町おこし事業の象徴が、当社なのだ。
境内社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁である朝堂院を
8分の5の規模で再現されているらしい。
冬の早朝に参拝。境内には衛視の方が数人いる程度。
この日は、雪が少し積もっており、境内は白く、暗かった。
大鳥居周囲の道は凍っており、ズルズルと滑りながら歩く。
早朝で車も少なかったので、道路の真ん中に立ち、大鳥居を撮影。
授与所が閉まっていたので、
夕方、ホテルに戻る前にもう一度参拝。
朝は、屋根に雪がのっていた応天門も、夕陽に照らされて鮮やかの朱色。
大鳥居 |
応天門(早朝雪) | 応天門(夕陽) |
額殿 白虎楼 大極殿 蒼龍楼 神楽殿 |
白虎楼 | 蒼龍楼 |
大極殿(外拝殿) |
大極殿 | 大極殿 |
平安神宮略誌
御祭神第50代 桓武天皇 第121代 孝明天皇 平安神宮 創建 明治28年3月15日 皇紀2555年 西暦1895年 由緒 桓武天皇は光仁天皇の皇子として天平9年(西暦737年)にご誕生され天応元年(西暦781年)に第50代の天皇として即位されました。英明な天皇は平城京が規模が小さく、日本の国都として適していないことを察せられ、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都をおうつしになり、さらに最も都に適した処として、延暦12年(西暦793年)同国葛野・愛宕両郡を選び都の造営を始められ、翌13年10月22日に新京に移られ、ここを平安京と称せられました。そして延暦15年正月にはじめて大極殿において百官の拝賀を受けられたのです。 これが京都の始まりなのです。桓武天皇は在位25年の間に律令を正し難民を救済し、文教を興しよく内政を整へるとともに広く海外とも交易して大いに我国の発展に努められました。以来京都は明治に至る一千余年の間、日本の国都として栄えて来たのです。桓武天皇は延暦25年(西暦806年)に崩御せられ、御陵は柏原陵(京都市伏見区桃山)です。 明治28年(西暦1895年)はあたかも平安京が定められてから、1100年にあたる為、京都市民はこの記念すべき年に桓武天皇の御違徳をたたえ、京都の祖神としておまつりしようと平安京の正庁、朝堂院の様式を復元し、同年3月15日、平安神宮の御鎮座をみたものです。 孝明天皇は仁孝天皇の皇子として天保2年(西暦1831年)にご誕生され、弘化4年(西暦1847年)第121代の天皇として即位されました。天皇の治政21年間は近代日本の胎動期で、幕末の内外騒然とした誠に難しい時期でありましたが、英明な天皇はよく世の推移を察せられ、明治維新の基を開かれました。「さまざまに泣きみ笑ひみ語りあふも国を思ひつ民おもふため」と憂国済民の熱い志をいだかれつゝ、慶応2年(西暦1866年)12月25日、36才の若さをもって崩御せられました。御陵は後月輪東山陵(京都市東山区泉涌寺)です。 近代日本の基礎をつくられた孝明天皇をおまつりしようとの声が国民の内より起こり、昭和13年平安神宮に孝明天皇奉祀奉賛会が設立され、建物の増改築が行われ、皇紀2600年に当る昭和15年10月19日、孝明天皇の御神霊の御鎮座を見たのです。ここにおいて、平安神宮は平安京創始の桓武天皇と平安京最後の孝明天皇の二柱をおまつりする、京都の祖神様として、市民はもとより広く国民に崇敬されるようになったのです。 −『平成祭データ』− |
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