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名草神社
なぐさじんじゃ
兵庫県養父市八鹿町石原1755−6
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式内社 但馬國養父郡 名草神社 |
兵庫県養父市にある。
八鹿駅の西16Kmほどの八鹿町石原に鎮座。
小佐川に沿って267号線を西へ7Kmほど進み、
椿色辺りで妙見山方向へ267号線をはずれて9Kmほど。
道なりに西へ進むと、妙見山(石原山)の中腹、当社の駐車場に到着する。
駐車場脇には「但馬妙見 名草神社」と刻まれた
石の社号標が建っており、社号標の後ろ、階段上には境内社。
当社に到着したのは夕方近かったのだが
木々に囲まれて鬱蒼とした参道はやや暗く
参道坂道の先に見える朱の三重塔が美しい神社。
この三重塔は、尼子経久が出雲大社に建立したものを
江戸時代になって移築したものと伝えられている。
三重塔の一重部分の軒下には力士の彫刻。
三重部分の軒下四隅には、
「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」の四猿の彫刻が見える。
「妙見の大杉」で有名な夫婦杉があったのだが、
台風で倒れてしまったようで、
三重塔の脇に、夫婦杉の根株が保存展示されている。
駐車場から参道入口 | 社号標脇に境内社参道 |
社号標 | 参道 | 境内社 |
三重塔 |
国指定重要文化財 名草神社三重塔
明治三十七年二月十八日指定
<三間三重塔婆>
この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久が
願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立し
たものと伝えます。出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日 本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)五月に標高八 〇〇mのこの地に移築されました。 高さは二十四.一m、一重の一辺の柱間は四.七mあ ります。屋根はこけら葺で、各重には高闌付縁がありま す。心柱は二重から塔の先端まで伸びています。 大永七年の材料は松・けやきが主体で、寛文五年に移 築されたとき、妙見杉で補っています。 彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇 股には凡字のほかに蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫りが あります。また三重の軒隅には「見ざる・言わざる・聞 かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。 昭和六十二年十月に解体修理が完成し、丹塗りも鮮や かな、三重塔が四百六十年ぶりによみがえりました。 −境内案内板− |
三重塔の先、階段上に鳥居が建っており、
鳥居をくぐって階段を上ると社殿のある境内。
当社の拝殿は、江戸時代元禄時代に造られた割拝殿。
一見すると楼門のようにも見える立派な構えだ。
割拝殿をくぐると正面に大きな本殿。
本殿というよりも本堂に見えるのは
真言系の神仏習合の神社だったかららしい。
本殿の向拝の木鼻の獅子は、口や耳を押さえたもの。
中央軒下には力童子が踏ん張っていて、面白い彫刻が施されている。
社伝によると、敏達天皇十四年(585)四月、あるいは五月、
紀伊国名草郡出身の養父郡司・高野直夫幡彦が
当時流行していた悪病退散を祈願して、
故郷の租神・名草彦神などを祀ったのが創祀。
式内社・名草神社に比定される古社。
相殿の神々の中で、星の神・北辰である天御中主神を祀り、
祭神が七座であることから北辰七星を祀る妙見の神とされ、
すでに平安末期から妙見社・妙見宮と呼ばれていたらしい。
室町期には社領が広大であったが
秀吉によってすべてを没収され
江戸時代になって家光の頃にようやく三十石の朱印領を寄進された。
寛永九年、真言宗帝釈寺と合併し、
典型的な両部神道の神社として社僧の管理で発展。
加持祈祷の技術によって、各地の公家や武将に篤く崇敬されたという。
明治になって神仏分離となり、
明治二年、名草神社と改称したが寺僧との間に争いがあり、
明治九年、帝釈寺は廃止されて日光院に合併して決着した。
明治六年十月村社となり、大正十一年十二月県社に昇格した。
主祭神は社号の通り、名草彦命だが
相殿神には二説あり、天御中主神・高御産霊神・神御産霊神の他に
日本武尊・御祖神・比賣神とする説。
五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神とする説がある。
紀伊国の故郷の祖神であるから、五十猛神兄妹神とする説が妥当だろうと
『式内社調査報告』に記されている。
とすると、大屋(おおや)津姫神が御祖(みおや)神へ変化したのは興味深い。
また、古い記録では、鎮座地名は「火畑」となっており、
「名草」は「なぐさ」であることから、草薙剣からの連想で日本武尊も面白い。
本殿の屋根には七曜の星紋が付けられている。
北辰七星を祀る妙見さんに相応しい紋だ。
参道入口や、本殿の脇に境内社があるが詳細は知らない。
『兵庫県神社誌』には、保食神社、三柱神社の名が載っている。
参道 | 鳥居 |
境内 |
割拝殿 | 本殿 |
本殿 |
軒下の力童子や、獅子の木鼻 |
本殿 | 本殿脇の境内社 |
県指定文化財 名草神社拝殿
昭和四十二年三月三十一日指定
<桁行五間、梁間二間、割拝殿、入母屋造桧皮葺>
棟札に元禄元年(一六八八)五月から同二年
六月にかけて建立されたと伝えている本殿と庭をへだてて相対し がけのふち に立っている。 柱は円柱、組物は出組で軒支輪をつけ ている。中央間馬道の上部には、大虹梁 をかけ、中備えに蟇股を置いている。 組物、木鼻などは古調で見るべきものが あり、保存も完好である。 江戸時代中期の代表的な割拝殿として 貴重な遺構である。 −境内案内板− 県指定文化財 名草神社本殿
昭和四十三[原文ママ]年三月三十一日指定
<桁行九間、梁間五間、正面三間、向拝付入母屋造
棟札によると、宝暦四年(一七五四)の建築
であることが知られる。正面千鳥破風、軒唐破風付桧皮葺> 平面は七区に分けた内々陣を中心に、内陣 外陣と四周の庇で構成されている。これは 真言系の神仏習合の社殿として建築史上 とくに重視すべき点である。 柱は身舎の部分を円柱、庇を大面取方 柱、向拝を几帳面取方柱とし、組物は外 廻りを出三斗、正面庇と外陣のさかいを 出組、内部を二手先とするなど、ところ によって意匠をかえているのも興味ぶ かい。 −境内案内板− 県指定文化財 名草神社本殿
指定年月日 昭和42年3月31日
所有者・管理者 名草神社
妙見山の中腹、標高800mの高地に本殿があ
る。別名を妙見社とも言い、名草彦命、天御中主神など7神を祭祀する。本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模 な建築で正面が9間(17.50m)、側面が5間 (9.04m)で、屋根はこけら葺で入母屋造、正 面に千鳥破風を唐破風をつける。 彫刻は精巧で、向拝の両側の柱には口をお さえた獅子と耳をおさえた獅子、その上の軒 下には力童子など、多数の彫刻がある。 平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれ その周囲に庇をめぐるもので、江戸時代の神 仏習合の神社建築として特筆される。 −境内案内板− |