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狹岡神社
さおかじんじゃ
奈良県奈良市法蓮町604
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式内社 大和國添上郡 狹岡神社八座 |
奈良県奈良市にある。奈良高校の西に鎮座。
一条街道から、北へ延びる道の突き当たり。
鳥居をくぐって、階段を登ると境内がある。
拝殿の後方に、朱の垣に囲まれて本殿がある。
垣内の左右奥に、境内社の祠が一つずつ祀られている。
丘全体が神域といったところ。
社伝によると、
霊亀二年(716)、藤原不比等が国家鎮護し
藤原氏繁栄のため、自宅の丘上に創祀したという。
佐保丘天神とも呼ばれており、菅原道真を祀るとする説も有る。
式内社・狹岡神社の論社だが、式内としての論拠は薄く、
「佐保丘」が「狹岡」に近い発音であることが理由。
大伴安麻呂を佐保大納言と呼ぶように、大伴氏と関連の深い地域。
祭神は、大年神と天知迦流美豆比売神の子である羽山戸神と
大気都比売神の間に出来た御子神八柱。
祭神が、天神八座となったのは、佐保姫神を若沙那賣神に
付会したためであり、本当の祭神は佐保姫神とする説もある。
参道階段左手に、「佐保姫旧跡保存地」という鏡池と呼ばれた窪地があり、
旱魃に雨乞いをしたという。
本殿裏の山に、小道が通じていたが、夕方になっており、
虫も多く、蜘蛛の糸だらけだったので、先へは行かなかった。
その小道脇に、「天満宮」と書いた石が立っていたので、
道の先に、祠か何かがあるのかもしれない。
あるいは、菅原道真を祀ると言われた頃の名残かもしれない。
境内はきれいに維持されており。氏子の思いが伝わる神社。
拝殿前の御供所にあった黒板には、この日に書かれた、
「ようこそお参り下さいました。」の文字。
境内入口 |
社号標 | 鳥居扁額 | 参道階段 |
参道脇の佐保姫旧跡保存地 | 拝殿 |
本殿と右奥に境内社 |
左奥に境内社 | 木の根元に鳥居 | 天満宮石碑 |
御供所の黒板 |
県立奈良高校の西に鎮座。旧村社。「延喜式」
神名帳の添上郡「狭岡神社八座」とされる。八座
の祭神は若山咋之神・若年之神・若沙那売神・弥豆麻岐之神・夏高津日之神・秋比売之神・久久年之神・久久紀若室綱根之神となっている。仁寿
二年(八五二)一一月、従五位下を授けられた(文
徳実録)。地元では「菅原天神の隠居」といってお
り、境内には天神社と刻まれた灯籠が多い。社
名の狭岡は佐保岡の母子音脱落ともいわれるが、
「大和志料」は「大神分身類社鈔並附尾」「大三輸
神三社鎮座次第」に率川神社(現奈良市)北方、開
化天皇率川坂上陵の東隣にある漢国神社(現同
上)を「狭加岡・坂岡神杜」と記すため、狭岡は狭
加岡の加が脱落したものとして、漢国社を式内
狭岡神社であると考証する。「延喜式」神名帳や
「文徳実録」仁寿二年(八五二)一一月九日条など
には率川坐大神御子神社・狭岡神社・率川阿波
神社というように、率川に挟まれた形で狭岡が
出、率川と狭岡になんらかの関連もあるように
推定されるが確証はない。「大和志」は「在法蓮
属邑佐保田」とし、現奈良市法蓮町・北新町・北
市町などの尊崇が厚かった。なお社殿について
永享七年(一四三五)の佐保田庄引付(天理図書館
蔵保井文庫)に「天満宮遷宮事、造遷殿於材木者
彼山(御領山)松山也、板入目等著用奉加銭、此御殿神者
春日御遷宮之時分買得御三之神殿出二十貫文被
立申」とみえ、応永三四年(一四二七)の春日社式
年造替に際して、その第三殿を当社が買ったこ
とを記している。「大乗院寺社雑事記」明応四年
(一四九五)二月三日条に、佐保田天神領一反の
あったことを記す。
−「大和・紀伊 寺院神社大事典」− |