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猿田彦神社
さるたひこじんじゃ
京都府京都市上京区上御霊前町489
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京都市上京区にある。
烏丸通から東へ上御霊神社へ向かう道の傍らにある。
上御霊神社の参道に、北面して鎮座。
知らないと行き過ぎてしまうような小社だが、
小振りの本殿に鏡が祀られていて、京都らしい。
創祀年代は不詳。
社伝によると、
延暦十二年(793)桓武天皇に当社の託宣があり、
平安遷都が行われたと伝えられ、
翌十三年、左大臣紀古佐美・大納言藤原小黒麿に命じて
当社を造営されたという。
永徳三年(1383)足利義満により本殿を造営。
当時の境内は四方四町であったが、応仁の乱で焼失。
さらに天正年中の兵火によって再び焼失し、
宝永七年(1710)、神楽司岡本内記が邸内に小祠を建てて祀っていたが
天明八年(1788)の大火によって、またまた焼失。
寛政五年(1793)に再建されたのが現在の社殿らしい。
ということで、火災には弱いようだ。
社号標 | 拝殿 | 拝殿の額 |
本殿 |
創建年代未詳であるが往古より現今の地に御鎮座あり。桓武天皇当社の託宣により平安遷都せられたと伝へられる。又延暦十三年勅願により社殿御造営、神領(山城國高野村)を定められた事社記に見え尚「御代々之聖主御崇敬異于他就中皇居御造替之砌者以地鎮行事令祭土公神給依之良賤舎屋亦准之」とありて歴代の御崇敬特に篤く、永徳三年造替の節には将軍職より小山郷柏木田を神領として寄進され御遷座祭には将軍義満社参、奉幣御神楽奉納ありて當時の社殿は本殿始め幣殿、祝詞舎、拝殿、神楽殿、神供所等あり境内至四方四町と記され境内には伊勢二所皇大神宮(南向)二柱社、日隅社、若宮社、氏神社、稲荷社(稲荷社は文安年中近衛殿の御勧請)等が配祀され其の規模実に宏壮であったが應仁の兵乱により社頭残らず灰燼に帰し、其の後復旧されたが天正年中、度々の兵火により復興の暇なく宝永七年上御霊神楽司岡本内記座敷内に祀り寛政五年に至りて現今の社殿に奉祀せり 新築の本殿は昭和六十年十月竣工せしものなり。 −『平成祭データ』− 猿田彦神社については、猿 田彦神社二十四世神主で御靈神社神楽司を兼ねた出雲路三 寶が天文二年(一五三三)に記したといふ社記(御靈神社 所蔵)があり、それによると、延暦十二年(七九三)この 社の託宣により平安遷都が行はれ、翌十三年天皇は左大臣 紀古佐美・大納言藤原小黒麿に命じて當社を造營せしめ、 以後代々聖主の曾崇あつく皇居の地鎮の祭儀には當神社の 土を用ゐて行ひ、庶民もこれに倣つた。永徳三年(一三八 三)足利義満は本殿を造替した。その時の規模は、境内が 四方四町で、本殿は南向、幣殿・祝詞舎・拝殿・神楽殿・ 神供所があり、境内社として伊勢二所大神宮・二柱社・四 隅社・若宮社・氏神社・稲荷社が祀られてをり、また小山 郷柏木田を領田として寄進されてゐたといふ。この時の社 殿は應仁の乱ですべて燒失、その後一部復舊されたが、天 正年中兵火により再ぴ燒失、寶永七年(一七一○)神楽司 岡本内記が邸内に小祠を建てて祭つた。しかしこれも天明 八年(一七八八)の大火により燒失、その後寛政五年(一七 九三)に造られたのが現在の社殿である。この本殿は流造 り(梁行三尺二寸、桁行三尺三寸)で北面し、境内は現在 三十八坪である。明治十七年の神社明細帳では信徒三十人 とみえるが、現在この神社の管理を行つてゐる上御靈前町 は約六十世帯である。例祭日は五月七日(實際は休日であ る五月三日に行つてゐる。舊くは七月七日)で、その外十 一月三日に火焚祭がある。祭日の神事は御靈神社の神職が 執行してゐる。 −『式内社調査報告』− |
【 猿田彦神社 】