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小槻大社
おつきたいしゃ
滋賀県栗東市下戸山1200
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滋賀県栗東市にある。
草津駅の南東4Km弱ほどの下戸山に鎮座。
名神高速を越えて数百mの地点に白い鳥居が立っており
車道を進むと、境内入口がある。
ここで参道は左手に進路を変える。
境内は鬱蒼と茂る森の奥、という雰囲気。
入口の鳥居をくぐってしばらく歩くと古墳がある。
古墳時代後期(六世紀後半)のものだそうで
古墳の上に、龍王社の小祠が祀られている。
さらに参道を進むと朱の鳥居、朱の社殿の境内社。
たぶん稲荷社だと思う。
さらに進むと社殿のある広い境内。
境内中央に入母屋造の拝殿があり、拝殿の後方に少し離れて
垣に囲まれた美しい一間社流造の本殿が鎮座。
社殿の向きは南東向きだ。
本殿の左右に、山王社と祇園社の小祠が祀られている。
大きくて綺麗な神社で、さすがに「大社」なのだ。
創祀年代は不詳。
小杖宮、小杖大明神とも称された神社。
当地方に勢力のあった小槻山公が
その祖・於知別命を祀ったのが創祀だと思われる。
於知別命は、祖別命、落別王とも記され、垂仁天皇の皇子。
小槻氏は奈良時代宮廷に采女を貢進し、
明治に至るまで一千年以上もの間宮廷社会において官務家として
確固たる地位を維持したという。
中世になって近江の守護佐々木の分流が当地青地庄に居を構え
地名の青地を氏とし、青地氏となったが
この青地氏は当社を篤く崇敬したという。
弘安四年十月、青地元真によって本殿内陣安置の宮殿が建立され
永正十六年に本殿を再建。
康永二年四月、青地重頼が八脚門(現在は無い)を建立。
さらに康永二年十月、青地重頼が上書して正一位の神階を得たことが
「園太暦」に記されている。
式内社・小槻大社に比定された小社。
明治九年村社に列し、明治十四年郷社に昇格した。
配祀の大己貴命がどのように祀られたかは不明だが
隣接した地にあった天台宗楽音寺の影響で
日吉西本宮から勧請されたものと思われる。
現在、楽音寺は廃寺となり、当社境外末社の十二将神社がある。
五月五日の例大祭には、花笠踊が奉納される。
境内右手に神馬像があり、下り藤の紋が付けられている。
『滋賀県神社誌』には、藤紋の他に「真向の兎」も神紋だとある。
参道の鳥居 | 境内入口 |
小槻大社古墳 |
古墳の上に小祠 | 龍王社 |
参道 | 参道の境内社 |
境内と社殿 |
永正十六年建替の本殿 |
山王社と本殿 | 本殿と祇園社 |
御神木の老杉 |
−社頭由緒書−
日本武尊の御祖父にあたり近江国湖南地方を統治されその後裔 の小槻山公は連綿として本邦を領治し開発した名族である この氏 族は小槻山公及び小槻臣あり何れも当郡に住し続日本紀 正倉院文書 三代実録等にその氏人の記事が所載され 小槻宿 称家壬生官務家もその後裔である 配祀神大己貴命は大国主命とも申し殖産療病禁厭 の法を定め給うた神でその徳を敬慕して当社に併せ祀られたものである 小槻大社は小杖大明神と称し延喜式所載の祈年の奉幣に預った 栗太八座の一つで貞観五年十二月(八六三)に従五位下貞観十七年 十二月には従五位上に隆り元慶六年十月(八八二)さらに 正五位下に進み醍醐天皇の延喜十一年二月(九一一)には 詔して従四位下を加へ奉られている中園太政大臣の日記「園太暦」 には康永三年八月(一三四四)正一位の極位に昇叙された ことが記録されておりまた本殿の棟札写にもこのことが見え代々 綸旨院宣異国降伏の勲功少なからずとも記されている 中世には青地庄の領主青地家の尊崇を篤くし本殿内陣 安置宮殿両側壁には弘安四年十月(一二八一)の年記のもとに 青地氏一族の名を墨書し永正十六年建立の現本殿は青地元真 が造替している戦国末期に及んでは青地氏もその勢力昔日の如くな らず慶長十三年膳所藩主戸田左衛門は田三反歩納米五斗を寄進 し尓後代々の藩主は先規に任せてこれを安堵した明治九年社格制 定に際して村社に列し明治十四年十二月には郷社に加列された 例祭は古代卯月初卯日であったが明治改暦以後五月初卯日 に定め明治四十二年より五月五日と改めた 例祭 五月五日 重要文化財(昭和三十三年五月十四日指定 小槻大社本殿(永正十六年(一五一九)建立 附 宮殿 一基 −境内由緒書− |