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海津天神社
かいづてんじんしゃ
滋賀県高島市マキノ町海津1253−2
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式内社 近江國高嶋郡 大田神社 |
滋賀県高島市にある。
マキノ駅の北東1Kmほどの海津に鎮座。
161号線に当社への案内があり、
少し北西へ入ると、尾山の麓に境内がある。
海津は、琵琶湖北端の港町であり、
若狭方面への重要な交通の要衝であった場所。
境内入口の鳥居には、「天満宮」と書かれた扁額。
鳥居をくぐり、境内に入ると正面に拝殿があり、
その後方、一段高い場所に社殿がズラッと並んでいる。
拝殿の後方、中央に一番大きな本社本殿。
本殿の右手には、大鍬神社。
その右手に、恵比寿社、八坂社、稲荷社が鎮座。
恵比寿社の後方の階段を登ると、愛宕社と白山社。
本殿の左手には、小野神社。
その左手に、靖国社と国狹槌社を祀る祠と貴船社。
左手奥の階段の上には、金刀比羅社。
当社には、境内社の社殿が多いのだ。
また、小野神社の斜め前にある榊は、
大前神社の神霊を祀っており、大前山の大前神社遥拝所。
最初の参拝は、五月の連休。新緑の頃。
今回の参拝は、二月の土曜日。雪の朝。
再度、秋の境内も見てみたい。
そんな気持ちになる、清々しい境内だ。
創祀年代は不詳。
社伝によると、建久二年(1191)の勧請。
学問の神として崇敬されてきた古社。
織田信長の兵火に罹り、一時社領を失ったが、
その後、朝廷や幕府の崇敬篤く、
社領や社殿の寄進があったという。
『明治神社誌料』には、
「按ずるに此地延喜式神名帳に載せたまふ所の
太田の神社の地なり、物かはり星移り、
式内社もおほくはその名を失ふ、
當社も古への太田社の地に天満天神を勧請せしものならん云々」
とあり、当地が式内社・大田神社であったとある。
境内社の小野神社は、式内社・小野神社の論社。
一説には、小野神社の鎮座地に、天満宮が勧請され
現在の海津天神社となったという。
また、昔は日吉山王社とも称したという。
境内の榊に祀られる大前神社は、
式内社・大前神社に比定されている神社。
古社地は大前山の中腹にある。
境内社の大鍬神社に関して、小野神社大鍬神社とあるべきところを、
延喜式に小野神社、大野神社と記されたという説もある、
式内社・大野神社の論社となっているようだ。
境内社の祭神は、『平成祭データ』によると以下の通り。
大鍬神社(大己貴命)、小野神社(天押帶日子命)、
恵比須神社(事代主命)、愛宕神社(可遇突智命)、
八坂神社(素戔嗚命)、稲荷神社(倉稻魂神)、
大前神社(素戔嗚命)、貴船神社(高靇神)、
金刀比羅神社(大物主神)、国狹槌神社(國狹槌命)、
靖国神社(護國の英靈)。
白山社の祭神が記載されていないのだが、
たぶん、菊理媛神だろう。
当社の神紋は、天満宮に多い梅の紋。
ただし、本殿左の小野神社には桐紋、
本殿右の大鍬神社には鍬紋を染めた提灯が掲げられているので、
この二社には固有の神紋があるのかもしれない。
社域 |
境内 | 拝殿 |
社殿 |
本社本殿 |
本殿左 式内社・小野神社 小野神社 | 本殿右 式内社・大野神社 大鍬神社 |
小野社前の式内社・大前神社遥拝所 |
境内左 靖国+国狹槌、貴船 | 境内右 恵比寿、八坂、稲荷 |
境内左上 金刀比羅 | 境内右上 愛宕、白山 |
海津天神社から見た大前山(中央が東山か) |
海津天神社
大鍬神社、小野神社の創祀は三世紀頃と
伝えられている。現在の主最祭神は菅原道真公
で、建久二年(一一九一)の勧請であり、
以来、学問の神様として広く崇められてきた。天神社のほか、恵比寿神社、貴船神社、国 狭槌神社など大小十棟の社が鎮まり、荘重な たたずまいを見せている。 昔から勅願所で社領一三〇石をうけていた。 元亀二年(一五七一)織田信長の兵火にあう。 天正四年(一五七六)高島郡司磯野員昌が本 殿を寄進し、天正十三年(一五八五)豊臣秀 吉が社領を寄進している。慶安元年(一六四 八)には徳川家光が社領一〇石を寄進し、以 後代々の将軍から朱印状が与えられている。 当社には、平安末期の紙本墨書法華経一〇 巻(重要文化財)や狩野山楽筆板絵著色絵馬 (県指定文化財)、長谷川左近筆の板絵著色 三十六歌仙扁額などのすぐれた神宝が多い。 −社頭案内− 海津天神社は学問の神様である天神様を御本社としてお祀りし古くより此の地方一帯の守護神として皇室を始め将軍家や諸大名や又其他広く一般の人々から深く信仰され往古は社領百三十石の勅願所でありましたが織田信長の兵火に逢い社殿棲門等焼失し社領は没収せられました。 其の後朝廷より毎年正月五月九月の三季に国家安全の御祈祷を仰せつけられ其の都度大麻を献上して大典侍御局より御初穂金弐両づつ計六両毎年奉納せられましたが明治維新に至り宮内省御取次となり明治五年廃止となりました。 豊臣秀吉公より天正十三年十一月に七石翌十四年一月十六日に五石計十二石御寄進があり又徳川三代将軍家光公より慶安元年二月二十四日に御朱印十石を賜り境内山林竹木諸役を免除せられ以後歴代御朱印を賜りその御朱印状は現在も残っています。四代将軍家綱公が江戸西丸に御移徒の際安藤右京進松平出雲守御取次で国家安全の御祈祷仰せつけられ大麻を献上して翌年御自服を拝領しています。 旧領主柳沢甲斐守より領分高島浅井両郡安全の御祈祷を又前田加賀守よりも武運長久子孫繁栄の御祈祷を命ぜられそれぞれ毎年大麻を収めています。 天保五年七月柳沢侯より武運長久五殻成就の御祈祷を乞い御初穂金子五両を奉納されました前田侯は此地通行の際は必ず当神社に参詣し其の都度白銀五枚を奉納し元治元年七月前田慶寧病気の際は其の全快を祈らしめ御初穂白銀五枚を奉納されました。 天正四年四月高島郡司磯野丹波守が本殿を寄進し慶長十九年三月代官白崎良純が拝殿を寄進されましたが現在の拝殿は昭和四十三年改築しています。 宝永三年大鳥居を建立し分政十年社壇を再建しました。 当地海津は北陸より京阪に通ずる水陸交通の要処であり通行の諸大名や各地の船仲間等が旅行の安全を祈願する者多く明治十四年郷社に列し同二十四年三月内務省より古社保存資金を下附せられ大正四年四月神饌幣帛供進社に指定せられました。 −『平成祭データ』− |