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川田神社
かわたじんじゃ
滋賀県湖南市正福寺1219
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式内社 近江國甲賀郡 川田神社二座 並名神大 月次新嘗 |
滋賀県湖南市にある。
草津線・石部駅の東2Kmほどの正福寺に鎮座。
野洲川を越えて、1号線を横断し、27号線を東へ500mほど進むと、
道路の南側に、こんもりとした社域の森が見えてくる。
境内入口は南側。
舗装された参道の先、森の入口に鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、境内参道を北上すると、突き当りに拝殿。
拝殿の後方、少し離れて石組みの上に本殿覆屋がある。
内部の本殿は確認していないが、
案内板によると、慶長五年の流造。
参拝は、年末の休日、早朝。
参道や社殿には、明かりが灯っている頃。
少し寒かったが、静かな参道を歩くと、身が引き締まってくる。
参道も境内も、とても綺麗で、
本殿前には、迎春の角松が飾られていた。
創祀年代は不詳。
社伝によると、元亀元年(1570)五月、
織田信長と六角承預が野洲川で対戦した時、
天台宗の名刹である正福寺が織田側に加勢したため
六角勢に、正福寺ともども焼かれ、
慶長五年(1600)再建されたという。
その時に、白鬚明神を合祀したが、
白鬚明神の古社地は、現在の御旅所の位置であったという。
式内社・川田神社の論社の一つ。
式内社であれば、三代実録に
「貞観元年正月二十七日奉授近江国従五位下川田神従五位上」
と記されている神社ということになる。
『明治神社誌料』によると、
当社を野洲郡の式内社・上新川神社とする説もあるらしい。
明治九年十月、村社に列した。
神紋らしきものは未確認だが、
『滋賀県神社誌』には三つ巴紋と記されている。
境内社も記憶にない。
『式内社調査報告』には、境外社として以下の名が載っている。
岩瀬神社(大己貴命)、愛宕神社二社(軻遇突知命)、
産宮神社(伊邪那美命)、金刀比羅神社(大物主命)。
案内板に、神像のモノクロ写真が載っていたので、
ここに転載させていただく。
案内板には、南北朝時代の石造宝塔があると記されているが
これも記憶にない。
早朝で、まだ頭が寝ていたのかもしれない。
社域の森 |
鳥居 | 境内 |
参道 |
拝殿 | 本殿 |
本殿と角松 | 本殿覆屋 |
川田大明神記
夫れ川田大明神社は近淡海の劦
甲賀の縣 日雲の荘(一つには緋雲に作る)
夏見の郷正福寺の里の御神座にて 抑の
縁由の次第は祭る所は二座にして天湯川
桁命 天川田奈神なり。人皇四十五代聖武天皇の馭宇 天平 五癸酉の戴、百済良弁法華 大乗峰山 正福寺の開基せらるるの砌 勧請せらるるの所 にて貞観元年正月二十七日川田神従五位 下を授けらるる。同五年(癸未)十二月 近江國阿度河川田神従五位上を授けらる。 則ち阿刀宿根、饒速日の孫 饒田命の 後也。同じく十年戌子八月十日宮符に 依りて宣す。又、文治元年(乙巳)十二月 社殿は之を修造す。 祭儀は毎年卯月初めの申の日、之を 奉行す。正福寺村 菩提寺村の土産の 神にして 倶に祭式に預る。 棟札に銘在りて曰く 正嘉二戌子年 四月十三日、正福寺圓乗院良春律師と 菩提寺最勝院光岳律師の公攴所両寺の 二人謹んで言く 川田の社は祭る所の 神の位いは延喜式の神名帳に録せらる 甲賀郡八座の一なる川田神社と同じき 神躰なり。 貴賤を論ぜず抽すべし、信に祭儀を 念ずれば霊験岐度疑いなき者なり。 後の者の為に之を記録し畢ぬ。
−境内石碑− 県指定文化財 木造神像 川田神社
昭和47年4月1日指定
川田神社(旧村社)の祭神は、天児屋根命である。由緒は、『延喜式明神帳』に「甲賀等八座の内、川田 神社二座名神に列し四度の官幣に預る」とある。また『 三代実録』に「貞観元年(859)正月二十七日甲申奉授 近江国従五位下川田神従五位上」とある。したがって貞 観元年正月に当社が建立されたことは明らかである。 神像は、男神像一体、女神像三体、他一体である。 いずれも彩色されていたらしいが、現在は全て剥落し ていてその名残が少しあるだけである。像はすべて桧材 の一木彫りで、男像は冠をいただき像高89cm、女像は50 cm、47cm、39cmで、他の一体は火にあい炭化が激しい。 神像の安置する社殿(町指定文化財)は、流れ造りで 素屋にはいっている。上棟札に「慶長五年(1600)庚子 四月十八日上棟」と記されている。 本殿正面350cm、奥行483cm、高さ226cmである。 境内には、南北朝時代の石造宝塔(町指定文化財)も ある。 −境内案内板− |