[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
大倭物代主神社
おおやまとことしろぬしじんじゃ
兵庫県宍粟市山崎町下牧谷宮ノ谷299
日も月も実にさやかなる年の道 ひかりもろすの神を頼まん
|
|
兵庫県宍粟市にある。
中国自動車道・山崎I.C.の北西5Kmほどの山崎町下牧谷に鎮座。
揖保川の支流、伊沢川沿いに429号線を進み、
山崎町下牧谷で、少し南へ入った場所に境内がある。
境内入口は南東向き。
参道入口に神門があり、広い駐車場がある。
神門をくぐり参道を進むと境内入口の鳥居。
鳥居をくぐると右手に梵鐘がある。
境内奥に社殿があり、境内右手に手水舎がある。
社殿は石組の上。
中央に当社社殿があり、左右に境内社。
拝殿は神社建築というより普通の民家のような雰囲気で新しい。
『式内社調査報告』に載っている昭和の写真では、
拝殿は割拝殿のように横に広がり、
社殿の脇には、直径1m以上ありそうな立派な御神木が聳え、
社殿の周囲にも鬱蒼と木々が茂っているのだが、
現在の境内は木々が伐採されて、やや寂しい印象。
台風などで木々が倒壊し、境内整備が行われたのだろうか。
ただ、拝殿後方の流造の本殿は、銅板葺で風格があり、
何度かの修築の痕も見られて、歴史を感じさせる。
参拝は、今にも雨が降って来そうな曇天の正月休日の昼頃。
社殿前、階段脇には門松が立っていた。
創祀年代は不詳。
天正年間、長水落城落城に際し兵火にかかって焼失。
天保二年、本殿を造営。
中古以降、師衆(もろす)または諸守神社と称し、
江戸時代、宍粟郡神社記には衆守神社と記されているが、
明治七年郷社に列し、明治十四年、現社号に改称。
当社(師衆社)は式内社・大倭物代主神社に比定されている古社。
ただ、御旅所であった上伊澤村鎮座の無格社住吉神社が
師衆社であり、当社は師衆社と同体とする伝承もあるらしい。
また、諸衆明神と物代主明神は別であるとの説もあるようで、
諸衆明神が住吉社なら、当社が物代主明神で正しいのだろう。
当社社号「大倭物代主」は「おおやまとことしろぬし」と読み、
大倭の事代主神が主祭神であるようにも見える。
現在は、本来は「おおやまとものしろぬし」と読むべきで、
三輪山の大物主と同神と解釈されているようだ。
ただし天和二年の棟札では、当社第一の祭神は健御名方神となっており、
なんだか複雑だ。健御名方神主祭神に関して『式内社調査報告』では、
当社も播磨一宮・伊和神社の御子神の一つと考えたのではないかとある。
だったら同じく御子神の事代主神でも良いのではないかと思うが、
当時の人々も、事代と物代の違いを意識していたのかもしれない。
『全国神社名鑑』には末社は三社とあるが、
『平成祭データ』には、以下の四社の名が載っている。
天満神社(菅原道眞)、大水戸神社(奧津比古命、奧津比賣命)、
山神社(大山祇神)、稲荷神社(宇迦之御魂神)。
『兵庫県神社誌』によると、
明治四十一年天満神社を、同四十五年大水戸神社を合祀したとあるが、
境内案内書では、天満神社は字北野鎮座の旧無格社で、
明治四十一年に境内に移転したとある。
また『兵庫県神社誌』には境内社に須賀神社(速須佐男命)が記されているが、
無くなったのだろうか。
さらに同書や『式内社調査報告』では大水戸神社の神々は、
本殿に合祀されているようだ。
当社の神紋について。
本殿屋根に五三桐と十六菊が付いており、
当社同様、大物主神(伊和大神)を祀る伊和神社の影響かと思うが、
拝殿内の提灯には、事代主神(エビス神)の神紋である三つ蔓柏が染められていた。
これらの全てか、あるいは、いずれかが神紋かもしれないが、
『全国神社名鑑』には当社の神紋は記されておらず、不詳としておく。
参道入口 | 神門 |
境内入口 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
本殿 |
左手の境内社 | 右手の北野天満神社 |
社殿から境内 |
大倭物代主神社 御由緒
当社は創立年代不詳にして社名を延喜神名式の制に大倭物代主神社として小社に列格せられ、明治七年二月郷社に列格、中古以来師衆又は諸守神社と称え祀られるを明治六年中大倭物代主神社と社名改称の儀旧飾磨県へ届出の処明治十四年六月十日付けをもって許可せられた、創立以来の社殿は天正八年長水城主宇野下総守、秀吉公と戦い利あらずして落城の際兵火に罹りて焼失されたと云う・・・因って御神霊は現在の佐用郡南光町船越、船越山瑠璃寺南光坊へ当時の落人の手により遷座せられ、約百年後の天和二年八月再び現在の社殿を造営し祀られるものにして時の棟札は当社本殿に宝物として今猶保存されている。−『平成祭データ』− |