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隼神社
はやふさのじんじゃ
京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町
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式内社 京四條坐 隼神社 大 月次相嘗
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京都市中京区にある。
四条通と坊城通の交わるところ、市バスのバス停前にある。
梛神社(なぎじんじゃ)と同じ境内にあり、
境内西側に梛神社と隼神社が並んでいる。
南が梛神社、北が隼神社。
残念ながら本殿外観はよく見えなかった。
梛神社の方が主格のようで、元祇園社と呼ばれるため、
境内には、八坂神社と同じ木瓜と巴の神紋。
都市部の神社らしく、こざっぱりとまとまった感じだ。
隼神社は、式内社・隼神社に比定されている古社。
貞観二年六月十五日、従五位下の神階を授けられ
貞観七年、貞観十年、貞観十六年と級階を累進して従四位上となった神社。
延喜の制においては大社に列し、四度官幣を受けたという。
大正七年(1918)、蛸薬師坊城からこの地に移祀された。
梛神社は、清和天皇貞観十一年京都に疫病が流行った時、
悪疫を祓い病を鎮めるために牛頭天王の神霊を播磨国広峰より勧請したもの。
当地に数万本の梛の木があったため梛神社という。
梛神社と隼神社、ともに厄除けの御神徳がある。
梛神社は元祇園なので、牛頭天王を祭り、蘇民将来の話で理解できる。
隼神社は「ハヤクサ」と訛り、瘡神(くさのかみ)ともいうらしい。
つまり、訛りが御神徳の由来。
隼神社の神紋は、「蔓橘」あるいは「抱き橘に蔓」という情報をいただいた。
残念ながら未確認。
梛神社と隼神社 |
梛神社社殿 | 隼神社社殿 |
梛神社 | 隼神社 |
境内社・稲荷 | もう一つ境内社 |
梛神社(元祇園社) 素戔嗚尊を主神とし、宇賀御魂命、 伊弉冉命,誉田別尊などを配祀する。 貞観十一年(八七六)京都に疫病が流行 したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を 播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、 このときその神輿を梛の林中に置いて 祀ったことがこの神社の始まりであるという。 後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷 祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘 を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を 八坂に送った。これがのちの祇園会の起 源といわれる。また、当社は八坂神社の古 址にあたるので元祇園社と呼ばれる。 維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、 明治七年(一八七四)と昭和四年(一九二九) の復興を経て現在に至った。 境内の隼神社は延喜の制度の大社で、 大正七年(一九一八)蛸薬師坊城からこの 地に移祀された。梛神社とともに厄除 け、疫病払いの神である。 −境内案内より− 隼神社記要 式内隼神社 延喜式に據れば左京四条に坐す神一産隼神社と曰うとあり、京中に坐す神三座の内にて貞観二年六月十五日朝廷より従五位下の神階を贈られ七年、十年、十六年、級階を累進して従四位上に位す。天慶三年九月四日従三位を給はる延喜の制に大社に列し四度官幣を受けたことは延喜式、三代実録、日本記略等の正史に記載されてあります。往昔は壮厳な大社であることが明白であります。 梛神社記要 元祇園梛神社 清和天皇貞観十一年京都に疫病盛に越る故に悪疫を薙はらい病を鎮めるために(素盞鳴尊)の神を播磨国広峰より勧請して四条の坊城へ神輿を入れ奉られる。此の地に数万本の梛の木あり源某と言う人が此の地に居住し神霊を朱雀大路に近い梛の林中に祭祀尊を斎き奉る。 −『平成祭データ』− |
【 隼神社 】