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津秦天満宮
つわだてんまんぐう
和歌山県和歌山市津秦83
ふりかえりかえり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは
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日前・国懸神宮の南約500m、和歌山電鐵貴志川線線路の西にある。
線路脇に鳥居があり、路地を入ると境内。
もと、日前・国懸神宮の摂社だった。
境内には幾つかの境内社があり、賑やか印象だ。
大正七年に、麻爲比賣神社を合祀したというが、
「式内社調査報告」では確かな証なし、として否定。
日前・国懸神宮の境内社として祀られているという説もあるが、
現在、同社でも確認できず、廃絶と見る意見が妥当か。
社名の読みに関して、地名が「つはだ」だが、
大和・紀伊寺院神社大事典では、「つわだ」と記されている。
菅原道真が、大宰府へ流される途中に、ここに立ち寄り、
御子を中務家に預け、
「ふりかえりかえり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」
と詠んだ、その千早の杜である。
『紀伊続風土記』によれば、
筑紫の安楽寺より菅原道真公の画像を勧請したとも、
当地の天神を敬信していた農民が
京都の北野天満宮に参詣した時の霊夢により、
社殿を建てたとも伝えられている。
千早は、知和夜とも云い、麻爲比賣は、
知和夜姫とも呼ばれたらしいが、詳細は不明。
ただし、菅原道真公以前に
「千早の杜」と呼ばれる神社が存在していたことは明らかなようで、
千早の杜が、式内社・麻爲比賣神社であった可能性はあるようだ。
境内社について『和歌山県神社誌』には
麻爲比賣神社、中言神社、稲荷神社、野槌神社、
恵比須社、弁財天社、役行者の名が載っている。
麻爲比賣神社と中言神社は、本殿に合祀されているようだ。
線路脇の鳥居 | 境内入口 |
境内社殿 |
鳥居扁額 | 稲荷社 | 牛像と野槌社 |
弁財天社 | 行者神変大菩薩、 不動明王、八大龍王 | 恵比須社 |
津秦天満宮御由緒
当神社は、菅原道真公を主祭神とし、
「智恵の神」「学問の神」として崇敬され、「津秦の天神さま」として
親しまれている。延喜元年(九〇一年)菅原道真公が大宰府に向われる 途中、和歌山吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった 津和田村の「千早の杜」(現当社地)をたずねられ、御子好寛公を 神前の郷、中務家に預けられ、
「ふりかえりかえり行くかも別れにし
と名残りを惜しまれた遺跡である。千早の杜の見ゆるかぎりは」 紀伊続風土記によれば、筑紫の安楽寺より菅原道真公の 画像を勧請したとも、また当地の天神を敬信していた農民が 京都の北野天満宮に参詣した時の霊夢により、社殿を建てた とも伝えられている。その後、御神体が一時、行方不明に なっていたが、寛文年間(一六二七年)御神体を社殿に納め 奉斎の盛儀を挙げて現在に至っている。 境内の御祭神
−境内説明より− 紀伊風土記によると。津秦は古、津和田村といって、東西二つに分れ、入海であった。浜辺で津渡の処から津和田と云ったと記している。 昔は知和夜の森、または土俗千早の杜と云ったそうである。数年前迄は数百年もの年輪を持つ緑したたる松の森も次々と松喰虫の被害であとかたもなく、現在千有余年の歴史を持つ県文化財指定の楠の大木、モチの木、桜、梅、ツツジ、萩など参詣人を楽ませている。 ○麻為比賣神社(知和夜姫神社) 延喜式神名帳に「麻為比賣神社、本国神名帳従四位ノ上麻為比賣神」、国造家正平二十年検田取帳に「知和夜二段、知和夜姫敷地」とある。 御社は兵乱に廃絶して石銘を建て、「麻為比賣神享保甲辰」の九字をきざむ。この石銘は古は現在の天満宮の南、百メートルの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿丑寅の方にお祀りしている。数年前伐採した松の配置から見ると、周辺一体は天満宮の境内であっただろうと思われる。現在、麻為比賣社跡は松は切られ、小高い草山が残っている。 ○天満宮 古、西津秦村中に、筑紫の安楽寺より書像を勧請したが、今は寺が廃去している。昔からこの里の農民は常に天神を敬神していた為、ある信者が北野天満宮に詣で霊夢によって御殿を建て、寛永年中に御神体を納めた、国造家永仁元徳の舊記にこの社の事を載す。また、天正十三年、法楽連歌一軸国造家に蔵むと紀伊風土記に記されている。また、当社古書には、延喜二年二月、道真公筑紫にむかわれる途中、この千草の杜で一子、好寛公と別離し、隣村の神前の郷、中務家に預け自分の御影を残した。 「ふりかえり かへり行くかも別れにし 千草の杜の見ゆるかぎりは」と記してある。 現在、神前には中務家の広い屋敷跡が残っている。また天満宮境内に菅原好名賀氏奉納の古い燈篭一基が現存している。 −『平成祭データ』− |
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