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檜原神社
ひばらじんじゃ
奈良県桜井市大字三輪字檜原
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大神神社・狭井神社の北、山辺の道沿いにある。
社殿は無く三つ鳥居があるだけの神社だが、
砂利の境内は清潔というか清廉な雰囲気。
境内入口には注連柱が立っており、脇の社号標には、
「大神神社攝社桧原神社」「皇大神宮聖蹟 倭笠縫邑」。
境内の由緒書きは、古くなっていて、良く読めない状態だった。
崇神天皇の御代、
皇居内の同床に祀り継がれてきた天照皇大神の御神霊を
豊鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に遷し祀られたが、
当地・檜原の岡が、その倭笠縫邑であるという。
天照皇大神の御神霊は、その後各地を移動して
最終的に、現在の伊勢神宮へ祀られたことにより、
当社は、元伊勢とも呼ばれている。
ただし、倭笠縫邑伝承地は大和内にも八か所の候補地があるらしい。
また、『大和志』『大和名所図会』では、
当社を式内社・卷向坐若御魂神社に比定されているが、
その可能性は薄いようだ。
境内には大神神社末社で、豊鍬入姫命を祀る「豊鍬入姫宮」がある。
境内 |
三つ鳥居 | 豊鍬入姫宮 豊鍬入姫命 |
【伊勢神宮の起源】 伊勢神宮はアマテラスを祭る内宮と豊受大神を祭る外宮からなる。その起源は、紀によれば、崇神天皇の代に疫病が流行したので、それまで宮中に祭っていたアマテラス大神を倭の笠縫邑に移して豊鍬入媛に祭らせた(これを神人分離という)。 つぎに垂仁紀二十五年に豊鍬入媛を廃し、ヤマトヒメがこれを祭って、菟田から近江・美濃を巡って伊勢に到ったとある。そのときアマテラスは、「神風の伊勢国は、常世の波がしきりに打ち寄せるすばらしい国だ」と言ったので、その地に社を建てて鎮座したという、これが、天皇家の始祖神を祭る皇太神宮(内宮)の起源伝承である。外宮については、雄略天皇の代にアマテラスの食事に仕えるため、丹波国から豊受大神を迎えたのがはじまりとされている(『止由気宮儀式帳』)。豊受大神は穀物の神である。このような伝えはいずれも歴史的事実ではないが、雄略朝に伊勢神宮の起源があることは、広く認められている。ただし、それは太陽信仰の盛んな伊勢の地に、大和朝廷が東方に進出する拠点を兼ねて、王家の守護神の祭場を移したもので、そこは今日の外宮のある所であったらしい。その後、壬申の乱にさいして、伊勢に入った天武天皇はアマテラスに祈願して勝利をものにした(天武紀元年六月)。天武天皇の時代にアマテラスは皇祖神としての地位を確立し、これを祭る宗廟として新たに内宮が造られたと考えられる。もともとの外宮には、社稷(しゃしょく)の神として穀物神が祭られるようになったのであろう。伊勢神宮の起源はおそらく五世紀の雄略代にまでさかのぼるが、内・外宮の二所体制が完成するのは七世紀後半の天武朝になってからと思われる。 −『日本神話事典』− 当社(大和神社)の創祀は、『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた天照大神・大和大国魂神を第一〇代崇神天皇の御代、同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に、勅して倭の笠縫の邑に、大和大国魂神を皇女渟名城入姫命に勅して大市の長岡岬に奉遷したのに始まる。 −『神社辞典 大和神社説明』− |
【 檜原神社 桧原神社 】