[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
金峯神社
きんぷじんじゃ
奈良県吉野郡吉野町吉野山青根ヶ嶺字二ノ鳥居1651
|
|
式内社 大和國吉野郡 金峯神社 名神大 月次相嘗新嘗 |
奈良県吉野町にある。
吉野山(858m)の頂上・青根ヶ峯から500mほど下ったところ。
当社から上を、奥千本と呼ぶ。
近鉄吉野駅からウネウネとした道を登ると、境内入口に到着。
少し広い場所は、バスのターミナルになっているようだ。
参拝当日は、雪の残る、曇天。
入口の鳥居からつづく200mほどの坂道は雪と氷で、滑るのでゆっくり歩く。
坂道を登りきると境内。
正面に社殿があり、後方の丘の上に本殿が少し見える。
創祀年代は不詳。
通称は、金精明神。あるいは、愛染宮。
吉野八社明神の一である。
ちなみに、吉野八社明神は、
金精明神(金峯神社)・牛頭天王社(廃絶)・子守明神(吉野水分神社)
芝明神(八大竜王社)・勝手明神(吉野山口神社)・井光明神(井光神社八幡宮)
威徳天満宮・幣掛神社。
社名の「金峯」は、吉野から天川村へかけての峯々の総称。
地下に黄金の鉱脈があるという伝説を持つ山。
宇治拾遺物語に、京都七条の金箔打ちの男が、
この山で黄金を取り、金箔を打って売りさばいたところ、
祟りによって、死んだという話がある。
祭神は金山彦神。
金の峰に坐す神として相応しいのだが、
一説には、蔵王権現とも考えられている安閑天皇。
安閑天皇は、「勾大兄廣國押武金日天皇」ともいい、
この「金日」からの連想と思われている。
また、林道春の神社詳説によると、
「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」。
明治までは、麓の蔵王堂を口ノ宮、当社を奥ノ宮と称していた。
境内の左手には、平成13年4月23日に
全焼した社務所の跡が、雪に覆われて痛々しい姿。
麓の勝手明神も全焼して跡形もない姿だった。
境内入口 | 社殿扁額 | 社殿から参道 |
境内 |
拝殿 | 後方の丘の上に本殿 |
本殿 |
境内の左手の小道を降りると、
「義経隠れ塔」と呼ばれる祠がある。
もう少し奥深い場所を想像していたが、意外に近い。
源義経がここに隠れ、追っ手から逃れるために、
屋根を蹴破って逃げた塔らしい。
義経の隠れ塔 |
金峯神社と隠れ塔
この神社は金山彦命を祭る吉野山の総地主
の神で、一名金精明神ともいって古くから信
仰を受けてきた延喜式内社であす。金峯というのは、この辺りから大峯山へか けての総称で、古来地下に黄金の鉱脈がある と信ぜられて、宇治拾遺物語その他にも、こ の山に登って黄金を得たという話があります。 これは仏教説話として、金峯山は黄金浄土で あるという観念から生まれたものです。 左の小道を下った所にある建物は、隠れ塔 といって、ここは大峯修行場の一つで、この 塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になりま す。そこで神官の先導に従って 吉野なる深山の奥のかくれ塔 本来空のすみかなりけり と唱えながら塔内を巡ります。 文治元年(一一八五)十一月 源義経がこの塔に隠 れ、追っ手から逃れるため屋根を蹴破って外 へ出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」 とも言われています。 −社前案内板− 金峯神社御神徳畧記
よしのやま花のさかりは限りなし青葉の奥もなおさかりにて 上千本のさくらのしげみをくぐって水分の社から爪先上りの道を登ること約一粁余で、金峯神社に着く。 松林の急坂を登りつめたところ、眼下に拡がる台地は一面にさくらの青葉につつまれ、その正面奥の木の間がくれに拝殿、左に社務所が見える。 近年開通した下の千本ケーブル終点から定期バスやタクシーを利用すると、約二十分で金峯神社下か社前に着くことができる。 春もいよいよ深まって、おちこちの花だよりも絶えるころ、この社前に名残りの花を惜しむによく、やわらかくもえでたさくらの若葉に、たけなわの春の気を一ぱいに味わうのもよい。 夏は標高八百米のここの土地から、涼しい深山の霊気に触れながらうぐいすの音が聞ける。ここの風情は格別である。殊に社の森一面を埋めた秋の紅葉や、ずっしりと降りつんだ雪の深山道を通り抜けて、この神前や隠塔に七百年の昔にかえって九郎義経の心情を偲ぶのも感また一しおである。 一、祭神 金山毘古神 古事記によると、伊邪那岐神が火の神、迦具土神を生まれたとき「みほとやかえて病み臥せり、たぐりに生りませる神の御名は金山毘古神、次に金山毘売神」と記され、日本記には、一書に曰くとして「伊弉冊尊火神軻遇突智を生まむとしたまう時に悶熱懊悩、咽ぐたりて吐したまう此れ神と化為りましつ、名を金山彦という」とでている。悶熱懊悩とは、枯れ悩むという意味で、昔からこの神を生物の枯死を防ぐ神として崇敬された外、金峯総領の地主神として金鉱の山を掌る黄金の神として祀られてきた。 二、沿革 創立年代は不明。林道春の神社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」とあるが、詳かでない。吉野八社明神の随一として、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼるのでなかろうか。 延喜式神名帳には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社・吉野水分神社とともに連ね、三社とも大社に列せられて祈年祭はもとより月次、新嘗の二大祭には官祭を受けて案上官幣に預るとあり、金峯神社はさらに明神大社に列せられて相嘗祭には優遇されている。朝廷の崇敬あつく、文徳天皇の仁寿二年十一月特に従三位を、清和天皇の貞観元年正月二十七日に正三位を、さらに後醍醐天皇は延元二年正月に正二位を加えられている。 1.虫害排除の神としての金山毘古神 すでに述べたように、元々金山毘古神は生物の枯死を防ぐ神である。古代人には、高山への信仰があり、大和では金峯山を葛城山とともに七高山の一つとして教えられた。金峯山とは、吉野河岸の吉野山から山上ヶ岳にいたる一連の山々の総称であるが、昔から清浄せんような高山として尊ばれ、度々陰陽道の祭場に選ばれた。高山というのはただ単に高い山というだけでなく、俗塵の少ない清浄の地として、さらに神霊の降臨された神聖な山としてたたえられた。三代実録を見ると、中国の前漢で害虫のため五穀不作の時に被害のあった州や県内の清浄な処を選んで、害虫を壤う祭典を陰陽寮に命じて行わせたといういわゆる薫仲舒の祭法にならって、清和天皇が貞観元年八月三日と同五年二月一日に勅使や陰陽博士に命じて大和国吉野郡高山で虫害を解き壤う祭事を行ったとでているが、この神社で行ったものである。現にこの神社を中心に、社のすぐ東北方の陰塔付近や南西の愛染宝塔など、一帯に残る広大な屋敷跡は、平安朝期に数多の寺院堂塔が建立されて都の人々の高山信仰の中枢地として尊崇された清浄な霊域として栄えていた往事を偲ぶに十分である。 2.金峯山の地主神としての金山毘古神 金峯の神は一名金精明神とも呼ばれ、金峯山一連の峯々の地主神として、金鉱を守護して黄金を司る神であった。金峯山については金鉱のある山として、鉱脈の存在を意味する宝の山として早くから世人に知られていた。奈良朝ごろは風土記的思想が流布されて、天然資源開発への関心が強く、鉱産物の発見や発掘が進み、金属文化の結実期だっただけに、精神的なあこがれの地として金峯山を弥勒の浄土と見たてられたこととも関連して、この山が若しかしたら金鉱の出る山でなかろうかとの半ば希望的推測がいつの間にか事実であるかのように、宣伝されて、「金の峯」となり「金の御嶽」となってきた。 例えば、権記長保三年四月二十四日の条に「早朝惟弘来り伝う、昨夜予金峯山に請い金帯金剣を得、吉想なり」とあり、拾芥抄には「金峯山は皆黄金なり。慈尊出生の時閣浮堤の地にのべ敷なんとて蔵王権現のまもらせたまうなり」との記事がある。元亨釈書塵裏抄にも、聖武天皇が大仏鋳造のために箔を求められた時、金峯山が金山だから良弁僧正に命じて蔵王権現に申請させられた処、夢に「わが山の金は慈尊出現の時、大地に布くためのものだからと拒否され、さるかわり近江国志賀の郡水海の岸の南に一つの山があって大聖垂迹の地があるからそこへいって祈るようにとの告げがあった。そこで良弁は石山に草庵を構えて祈誓したところ、果せるかな天平二十一年三月、陸奥国から砂金が発見されて官庫に納めることができたので、天平に感宝の二字を加えて天平感宝二十一年といった由が記さている。 宇治拾遺物語には、七条の薄打がこの山に登って金をとり「この金とれば、雷、地震、雨降りなどして少しもとるものがなかったというが、何のこともないではないか、今後もこの金をとって生活費にあてよう」うれしさの余り、はかりかけて見ると十八両あった。これを箔に打つと七八千枚になったので、誰かまとめて買ってくれる人がないだろうかと思っていた矢先、検非違使が東寺の仏を造るために金を集めていることを聞いて大喜びで買ってもらおうとしたところ、件の金箔にはすべて細字で「金御嶽」と書かれていた。検非違使からこのことを知らされた別当は、驚いてその金箔を悉く金峯山に返還し、薄打を七条川原にはりつけ刑に処し、獄に入れたが十日余で死んだと書かれている。 三、建物と付近の模様 拝殿の前に張られたあざやかなしめ縄の向う側に、またしても生いしげった熊笹にかくれそうな高い苔むした石段が見える。その頂上奥まったところが金峯の守護神の存す神殿のはずだが見えない。 山腹の拝殿は桁行三間、梁間二間、其の昔暴風雨のため倒れたので、旧吉野神宮にあった拝殿を移建された。 神域は三三〇〇坪で社頭もかなり広い。社務所の左の釘抜門をくぐって下ると蹴抜の塔がある。此の塔の由来は今より壱千三百年前大峯山と云い又山上岳とも云う。山を開かれた役小角、即、役行者と云う僧が山を開く迄に塔の場所で三ヶ年間修業をなして後に開かれた事に成って居る。其の後弟子の僧が出て、師匠の徳を偲ぶ為に一基を建立して、今後大峯山へ登る修験者は必ず皆師匠と同じ様に修業して登る様にと、昔から伝わって現在に及んだので有る。元弘当時、付近の宝塔院が大塔宮の本陣となって居たが焼け失せた時にも兵火を免れて付近の堂塔中ただ一基残された鎌倉時代優秀な建造物として国宝に指定されていたが明治二十九年惜しくも堂守の失過で焼失し、大正の初年再建されたものが今の建物である。文治年間、源義経が弁慶外家来などがこの塔内に隠れて一時難を免れたと云う。其の義経隠塔の名がある。又義経が塔を出る時屋根を蹴破て逃たから蹴破り塔と云う。義経が隠れ塔は三重の塔で有ったとの事である。白衣の神官に招かれて塔に入り「吉野なるみやまの奥の隠塔、本来空のすみかなりけり。オンアビラウンケンソワカ。なむ高祖神変大菩薩」と呪文を唱へながら、まっ暗な狭い堂内を廻る。突然ガンガンガンとひびく鐘の音に魂が沈まるというので、ここを鎮魂道場といって、修験者の行場として現在も続て行って居る。寛弘四年藤原道長の埋蔵した経筒について、一説では本社東北の山麓から元緑四年に堀り出されたともいうが、真偽の程は明らかでない。前に記したように、当時のこの神域の清浄さなどから見ても、なるほどとうなずける点もないではないが、今直ちにそうだとの断定は無理である。若しこれが真実であれば、現に東京国立博物館出陣中の経筒が山上岳の経塚から発掘されたとの従来の説がくつがえされ、道長の金峯修業はこの御社を中心として付近の霊域で行われたことにある。 神社から西行庵まで約六百余り、時間して往復三十分かかる、社前の右の道を登って右に折れしばらくして左に下ると、とくとくとくの苔清水を経て西行庵に至る。 社前から道を左にとって登ると道の右側に屋敷跡がながめらる。ここが愛染宝塔院跡で東西五百米。南北八百米。平安朝以来繁盛をきわめた愛染堂、安祥寺、蔵王堂、多宝塔、四方正面堂鐘桜山七社熊野三社伊勢多賀荒神弁天八幡社等が櫛比していた、いわゆる吉野の奥の院跡である。文字通り峯高うして谷深く、水清らかな一大別天地で、往年金峯山上に修行する人は、先ずここに籠居して精進潔斉するのが例であった。山上に入峯しない修行者は概ねここで練行するのが習わしであった。 四、祭儀 本社の秋の御例祭は、ごく最近まで毎年十月十五、六日両日行われていたが宮の秋祭が即ち吉野山氏神で秋祭として行われて居る。現在は十月十六、七日両日に渡て行われる 十六日午前中に宮から氏子が御神霊を唐びつにて奉じ先ず水分神社に渡遷。それより水分神社の神輿に移し午後一時頃より天滿神社境内にある御旅所の仮宮に奉遷して夜宵宮祭を行われて十七日本祭を行われて午後前日と同じく氏子にかつがれて本宮に遷御される。 深き山にすみける月を見ざりせば思い出もなき我が身ならまし(西行) 高根より程もはるかの谷うけてたちつづきたる花のしらくも(本居宣長) 祭日 一月一日・新年祭、十月十七日・御例祭、二月二十一日・祈年祭、十月二十三日・新嘗祭、毎月一日十五日・月次祭、十二月三十一日・除夜祭 −『平成祭データ』− |