[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
吉水神社
よしみずじんじゃ
奈良県吉野郡吉野町吉野山
|
|||
旧村社 |
奈良県の吉野町にある。
近鉄吉野線・吉野駅から南に2Kmほどの吉野山に鎮座。
吉野駅を出てロープウェイに乗りかえ、
ロープウェイを降りて少し歩くと道路の左手に鳥居が見えてくる。
鳥居の脇には「吉水神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり坂道を下ると「従是 吉水院」と刻まれた石碑。
さらに参道を進み、坂道を上ると門がある。
境内入口の門をくぐると社殿のある境内。
拝殿に向って左手に書院があり、授与所がある。
社伝によると、役の行者の休息の庵室として創立。
金峯山寺の僧坊・吉水院であったが、
明治になって廃寺となり、吉水神社と改称した。
「吾妻鏡」によると、文治二年(1185)、
源義経が兄頼朝の迫害を逃れ、吉水院に潜居したとあり、
書院内には「義経潜居の間」や「弁慶思案の間」などが残されている。
延元元年(1336)には、足利尊氏の入京によって
後醍醐天皇が京都花山院から逃れ、当社を行幸所として南朝を開いたといい
境内には「南朝の皇居」と記されていた。
文禄三年(1594)、豊臣秀吉が
当社を本陣として花見を行ったという。
境内社として確認したのは蛭子神社。
また、弁慶が手で岩に打ち込んだという釘があった。
当社には書院をはじめ多くの重要文化財があり
拝観することができるようだが、
他の予定があったので、僕は拝観していない。
社号標 「吉水神社」 | 鳥居 | 参道石碑 「従是 吉水院」 |
参道の門 | 境内入口の門 |
社殿 |
社殿、奥に書院 | 社殿 |
弁慶力釘 |
弁慶が手で打ち付けた釘 | 蛭子神社 |
吉水神社
元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役
の行者が創建したものと伝えられ金峯山寺の
僧坊であつたものが、明治八年寺号を廃して吉
水神社と改め後醍醐天皇、楠正成、吉水院宗
信法印を合祀しています。当社は吉野の歴史を代表する殿堂で文治元 年(一一八五)源義経が兄頼朝の迫害を逃れて愛 妾静御前、弁慶らと共にここに息をひそめ、後 世にその悲恋物語を伝えています。 また、延元元年(一三三六)後醍醐天皇が京の花山 院を逃れて吉水院宗信の援護のもとに当社を 行宮とされ、血涙の歴史が記された南朝の大舞 台でもあります。降っては文禄三年(一五九四) 豊太閤が当社を本陣として大花見の盛宴を催 し天下にその権勢を示したのは有名です。し たがって当社に所蔵する宝物はすこぶる多く 百二十数点を展覧しており重要文化財の宝庫 といわれています。 この神社を有名にしたのはその由緒もさる ことながら実は現存する書院であってわが国 書院建築史の第一頁に位する本格派の建物で 初期書院造の代表的傑作とされています。 いまなお書院内に「義経潜居の間」「弁慶思 案の間」「豊太閤花見の間」等が残されています。 −境内案内板− |
【 吉水神社 (吉野山) 】