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道相神社
どうそうじんじゃ
京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43−1
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京都府の南丹市にある。
小浜と京都を結ぶ周山街道(162号線)から少し南下した場所。
南丹市役所美山支所から由良川に沿って368号線を南下し、
19号線に入って300mほど南下し、
19号線から東の小道に入ると、当社境内がある。
境内入口は西向きで、朱の鳥居が建ち、
右手には「郷社 道相神社」と刻まれた社号標。
鳥居扁額にも「道相神社」とある。
当社社号の「道相」は「どうそう」と読むが、
通常は「道祖」と書いて「どうそ」と読む。
「道相」と書く道祖神社は、全国でも当社のみ(だと思う)。
鳥居をくぐると、綺麗な砂利の参道があり、
植木の刈込も丁寧に行われているようで、気持ちの良い神社。
参道奥には神門(山門)があり、
門をくぐると社殿のある境内。
境内中央に舞殿のような拝殿があり
その後方、階段上に本殿がある。
参拝は、八月真夏の休日。
快晴の青空と、背後の緑の山が美しかった。
創祀年代は不詳。
社伝によると、
允恭天皇の第一皇子・木梨軽皇子(軽野皇子)が
丹波国桑田郡の幽谷河内谷に潜居し、
さらに軽野より板橋に遷って一祠を創建したのが当社の起り。
「軽野」と神野の類似からか、
当社を式内社・神野神社の論社とする説があるらしい。
後、郷民は皇子の遺徳を追慕し
皇子をこの社に合祀し、道相神社と称したという。
また、一説には崇神天皇御宇、
四道将軍の一人としてこの丹波地方に遣わされた丹波道主命が
当地開発のため、ここ宮脇の地に野々宮御所を創建されたのが起源とも。
古来、当地の産土神として崇敬され、
明治六年郷社に昇格した。
神門や拝殿に「九枚笹」の紋が付けられていた。
本殿の左右に境内社があり、
『明治神社資料』によると、境内社は三吉神社と若宮神社。
右手の祠は三社合祀らしき構造の祠。
社殿の右手に、「道相神社 一千五百年祭記念碑」、
「野々宮御所 創建二千年大々祭記念」と刻まれた石碑があり、
小道が背後の森に延びていた。
その道を上ると、森社が祀られている。
社頭 |
神門 | 拝殿 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
社殿左の境内社 | 社殿右の境内社 |
背後の森の境内社 |
由緒略記
当神社は伝承古文書によりその由来が明らかにされ近郷最古の歴史を持つとされている。又本殿破風には菊の御紋章を奉戴しその尊厳を弥が上にも崇め産土の神々を御祭神とし古代よりこの地方の総氏神として崇拝されて来た御社である。抑当神社の由来は第十代崇神天皇御宇<前九七年〜前三〇年>に四道将軍の一人としてこの丹波地方に遣わされた丹波道主命がこの地方開発のためここ宮脇の地に野々宮御所を創建されたのが起源とされている。爾来二千年、時代の変遷と共に御社名も野々宮、道主一ノ宮大明神、軽野神社そうして延長七年<九二九年>に道相神社と改名したとされている。今の社殿は文政五年、野々村三十三ケ村[大野、河谷、岩江戸、向山、樫原、小渕、萱野、肱谷、音海、小笹尾、嶌、宮脇、原、市場、和泉、棚田、板橋、下吉田、上司、沢田、中、大内、安掛、上久保、下平屋、上平屋、野添、深見、長尾、荒倉、砂木、栃原、棚、今宮、亦林]氏子の尊い寄進により再建されたのである。又一際参拝者の目を引く山門は寺院造りであり神仏混淆の時代<七〇〇年〜一八六八年>に建立され明治三十五年<一九〇二年>復元往時の名残を今に留めている。氏子たちは毎年十月九日を例際日とし秋の豊穣を祝いあって来た。とりわけ大正二年<一九一三年>には郷社昇格を祝い、昭和四十四年<一九七〇年>には軽野神社創建千五百年を記念して共に大祭を執り行って来たところである。更に本年平成四年<一九九二年>は氏子総参加の元に古代を追憶しつつ、野々宮御所創建二千年記念大々祭を執り行うべく、着々とその準備を進めている。 今、この静かな鎮守の森は先人達によって築かれた尊い長い歴史の重みを秘め丹波美山の人々の幸せを見つめつつ二十一世紀という新たな時を刻もうとしている。 −『平成祭データ』− |