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水尾神社
みおじんじゃ
滋賀県高島市拝戸716
五月雨に なほ川音も高島屋 水尾の杣山 雲もなかれむ
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式内社 近江國高嶋郡 水尾神社二座 並名神大 月次新嘗 |
滋賀県高島市にある。
近江高島駅の北西3Kmほどの拝戸に鎮座。
和田打川に沿って走る車道の南側に境内があり、境内入口は東側。
参道入口に大きな鳥居が立ち、鳥居の脇には社号標。
参道を歩き、境内に入ると、正面に拝殿。
左手には大きな石が転がっていて、立派な池庭がある。
周囲に「拝戸古墳群」があるらしいが、
どれが古墳かは、僕には分からなかった。
拝戸古墳群は、六世紀に築造された円墳群らしい。
拝殿の後方には、垣に囲まれた本殿。
垣の右横には、境内社の八幡社。
垣の中の本殿の横には、小さな祠がある。
創祀年代は、不詳だが、
『新抄格勅符抄』に、「三尾神 十三戸 神護元年九月七日符」
とあり、765年にはすでに著名な神社として存在していたらしい。
延喜式神名帳に、水尾神社二座と記されており、
昔は、和田打川(水尾川)を挟んで
河南社と河北社の二社殿が存在していた。
現在地は、河南社のあった場所で、
河北社は、昭和45年の台風で倒壊し、
現在、本殿の隣の小社・姫宮として存在している。
祭神は、河南社に磐衝別命、河北社に比咩神。
三尾君の祖神を祀った神社であるが、
一説には、猿田彦命と天鈿女命とも。
『式内社調査報告』によると、河北社の元地に、
当社の社号標が立っているらしい。
参拝時に、その社号標を探そうと、境内を北へ出たところ、
車道を挟んだ場所に、フェンスに囲まれて社号標が立っていた。
ちょっと近いような気がしたが、そこで探すのを止めてしまった。
だから、たぶんこれは違う社号標だと思う。いずれまた確認に行きたい。
参道入口 | 境内入口 |
境内 |
境内左手水尾庭園の巨石 | 参道右手の祓岩 |
水尾庭園 |
拝殿 | 社殿 |
垣内の本殿と姫宮(小祠) |
垣外の右手に八幡社 | 境内北側、車道を挟んだ場所に社号標 |
水尾神社 滋賀県高島郡高島町拝戸
−境内案内より− 延喜式内社 水尾神社
−参道石碑より (一部誤字のまま転載)− 水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく)社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天皇の第十皇子磐衝別命。また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振姫命であります。 磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。 磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。 それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。 河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比咩神(振姫命)のみを祀る社となりました。 −『平成祭データ』− |