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大原野神社
おおはらのじんじゃ
京都府京都市西京区大原野南春日町1152
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式外社 大原野神 延喜式四時祭上大原野神四座祭 |
京都市西京区にある。
JR向日町駅から西へ4Kmほどの南春日町に鎮座。
淳和天皇陵のある小塩山の東麓。
JR向日町駅あるいは阪急東向日駅からバスに乗る。
灰方を経由して、終点南春日で下車。
バス停から西へ歩き、境外社・樫本神社あたりで北へ向うと境内入口の鳥居。
鳥居をくぐり、階段を登ると200mほどの参道が北へ延びている。
参道の右手には、奈良の猿沢池を模したという鯉沢の池。
左手には、清和天皇産湯の清水「瀬和井」がある。
大原や小塩の山のほととぎす われに神代のことかたらなん | 左大臣 |
大原や小塩の山の小松原 はや木高かれ千代の蔭見ん | 紀貫之 |
大原やせがいの水の手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん | 大伴家持 |
夜を寒みせがいの水は氷るとも 庭燎は春のこころこそすれ | 大江匡房 |
大原や小塩の山も今日こそは 神代の事もおもひ出らめ | 在原業平 |
参道を進むと境内。
正面に中門があり回廊に囲まれた、四棟並びの本殿。
旧官幣中社であり、本朝十六社、二十二社の一つ。
社伝によると、
延暦三年(784)、桓武天皇による長岡京遷都に際し、
藤原氏出身の皇后乙牟漏が、氏神である春日社への参詣が不便であるとして、
当地に春日明神を勧請したのが始まり。
後、平安遷都後の嘉祥三年(850)、
左大臣藤原冬嗣の願により正式に現社地に勧請され、
地名から大原野神社と称し、王城鎮護の社として崇敬を集めた。
一説には、仁壽元年(851)、
文徳天皇の生母藤原順子の願によるものとも。
いずれにしろ、藤原氏の氏神として、当地に勧請されたもの。
本殿は春日大社と同じ四棟の春日造。
慶安年中の造営。
境内社には、祓戸社、稲荷社、白髭・藤森社、八坂社。
平成祭データには、他に、摂社・若宮社、八幡社、地主社が
記載されているが、参拝時には気づかなかった。
見落としたか、いずれかの相殿か、境外にあるのか。
鯉沢の池の側に、ひとつ、名前のわからない祠があったが。
境内入口 | 参道の鳥居 |
参道 | 参道 |
瀬和井の清水 | 瀬和井の清水、小さな鯉が泳いでる |
鳥居 | 猿沢池を模した、鯉沢池 |
境内 |
中門 |
狛鹿 | 狛鹿 |
社殿 |
本殿 |
祓戸社 | 白髭・藤森、稲荷、八坂 | 池の祠 |
御由緒
大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから
開けたところで一萬年も以前の有柄尖頭器が
山の手から発見されている。人皇五十代桓武天
皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長
岡京(七八四−七九四)に遷された時 鷹狩を愛した天
皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。萬葉集の編者大伴家持が 「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」 と詠んだのも狩に供奉した時のものであろう。 またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日 大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが當 社の起こりである。御祭神は 第一殿 建御賀豆智命 第二殿 伊波比主命(経津主命) 第三殿 天之子八根命 第四殿 比咩大神 がお祀りされている。文徳天皇は仁壽元年(八五一) 祖父藤原冬嗣が生前果せなかった壮麗な社殿を創 建され春秋二季勅使をつかわし勅祭を行なわれた。 應仁亂後は社運おとろえ祭儀さえ中絶したが後水 尾天皇(一六四八)が再建された今の本殿四棟春日造 はこの時のものである。慶應元年十一月加茂、石 清水の勅祭に次いで官祭が復興され近くは大正十一 年十一月十四日時の皇后(貞明皇后)が當社に行啓 遊ばされた。御例祭は櫻花満開の四月八日に執行、 特殊神事として御弓祭と御田刈祭の二私大祭が ある。 −境内案内板− 大原野神社
祭神として、奈良の春日大社と同じ建甕槌命、経津主
天児屋根命、比売大神の四大明神を祀っている。当初は桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏の意によって藤原氏の として長岡京に勧請されたが、嘉祥三年(八五〇)藤原冬嗣の奏請 神殿が建てられ、京都の守護神としてこの地に祀られたものであ 平安時代の中期には藤原氏の隆盛とともにその氏神として大き を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅 派遣されていた。また、伊勢の斎宮や加茂の斎院にならって当社 斎女がおかれていた。しかし、応仁の乱後は社運が次第に衰え、祭儀 絶えがちになり、社殿は荒廃した。現在の春日造総檜皮葺の本 慶安年間(一六四八〜一六五二)に再建されたものである。 境内には奈良の猿沢の池を模した「鯉沢の池」や古歌に多く詠まれた 「瀬和井の清水」と呼ばれる名水が −社前案内板− 大原野神社由緒略記
創立と沿革 大原野神社の鎮座する南春日町付近は、山城地方でも最も古くから開けた所で、一万年以前の有柄尖頭器などが神社の山の手の方からはっけんされている。人皇50代桓武天皇が、延暦3年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中心とした長岡京(784〜794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。 万葉集の編者大伴家持が、大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん、と詠じたのも、このような催しに従った折のことである。その節には藤原氏の人々も多く参加していたが、それらの人々はこの地の風景の美しいのを賞でて、氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることにした。これが当社の起りである。 その後約60年を経た嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇は、祖父、冬嗣の願望を思い出してこの地に壮麗な社殿を造営された。 明治4年(1871)官幣中社に列せられ御社頭はにぎやかであったが、第2次大戦のあと、国家からの援助は打切られ現在に至っている。 −『平成祭データ』− |