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出雲神社
いずもじんじゃ
京都府亀岡市本梅町井手西山6
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式内社 丹波國桑田郡 出雲神社 名神大 |
京都府亀岡市にある。
亀岡駅の西10Kmほどの本梅町井手西山に鎮座。
477号線から西へ入ったところ、小学校の裏に境内がある。
境内入口は南東向き。
鳥居の脇に巨木が聳え、その根元に大きな岩がある。
この岩が、当社祭祀の根源なのだろうと断言できるほどの大きさだ。
鳥居をくぐると正面に拝殿があり、
拝殿の後方、垣に囲まれて、やや小振りの本殿がある。
細身の流造の本殿だ。
境内には幾つかの岩が転がっており、
背後の林の中にも、幾つかの岩がある。
鳥居脇の岩の後ろに、岩に向かって小さな祠が祀られている。
境内には庚申塚の石や仏像などがあり、
境内右手に、境内社の稲荷社が鎮座している。
参拝は、夏の休日の午後。
夏休みなので小学校も静かだ。
授業のある日なら、境内の大岩は、
児童達の恰好の遊び場になっているかもしれないなぁ、
などと考えながらの参拝。
童心に戻って登ってしまいたいと云う欲求を抑えていた。
大人なので。
創立年代は不詳。
社伝によれば、往古、大岩の傍らに出雲大明神と称する祠があり
早田太夫と云う者が、承正年中まで奉祀してたという。
後、天正年中に社殿を造営したが
戦国時代の戦火により、社殿古記録は焼失したという。
境内の案内板では、上記の社伝に関して、
「承正」という年号が無いこと、
太夫という名は室町以降に使用されたことを疑問としている。
しかしながら、磐座信仰の神社であることは明確で
古代から祭祀が行われていたであろうことは想像できる。
式内社・出雲神社の論社だが、
地元では式内社であると云う伝承は無いらしい。
たしかに亀岡には、
式内社・出雲神社に比定されている出雲大神宮という大社があり、
当社が式内社・出雲神社である可能性は低いだろう。
ただ、亀岡の西に出雲大神宮、東に当社出雲神社があり、
ともに磐座が祀られていることは興味深い。
社殿の屋根に、巴紋が付けられていたが、
当社の神紋かどうか、確信は無い。
鳥居脇の大岩 | 鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
鳥居脇の樹と大岩 |
本殿 | 本殿 |
大岩 |
庚申塚 | 稲荷社 |
境内の岩 | 境内の岩 |
出雲神社
当社の社伝によれば「往古より社地に大岩あり、其の岩の傍に
出雲大明神と称する社祠あり、早田太夫なる者、承正年中
迄奉祀す。天正年中大己貴命を祭神とし社殿を建立し
たるも仝年中、戦国時代の兵乱に逢い社殿古記録等
焼失す。」とあり按ずるに当社は約二千年程前に
此の地に住み着いた人達によって此の大岩に神を
迎えて祭った磐座祭祀で最古の神社形式で廣
峯神社と同じ出雲系の部族によって祭られたものと思う。
祭神も大己貴命(大国主命の同一神)で廣峯神社の御子である。大明神と云う神号は鎌倉時代以降のもので承正と云う年号は 無い。仮に承久と定めるが早田太夫とある太夫名は室町時代から一般 に使用されたと思われる。よって右社伝は正確とは云いがたい。然し天正 年中(一五七三〜一五九一年)社殿を建立したのは確であろう。それ迄は社 殿は無かったのではないか。兵火に逢い、後、再建され明治迄は出雲 大明神と称し明治三年、出雲神社と改称、明治六年六月、 村社に列格、昭和四年、現在の立派な社殿に大改築された。 例祭 十月十六日 春の宮黨 二月十八日 秋宮黨 十二月十八日 −境内案内板− |