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大鳥大社
おおとりたいしゃ
大阪府堺市西区鳳北町1−1−2
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式内社 和泉國大鳥郡 大鳥神社 名神大 月次新嘗 |
大阪府堺市にある。鳳駅のすぐ北。
西側入口に社号標と鳥居が立ち、参道が東へ延びている。
参拝したのは年末の日曜日の朝。
参道には露店が並べられていた。
出店の準備の人々に混じって、参道を歩き、拝殿前の八角鳥居に到着。
年始準備のためだろうか、拝殿前には青いシートが貼られ、
撮影にはむかない景観。
境内では、神職の方々が朝の掃除の最中だった。
露店の並びは、そのまま東へ続き、
境内社・大鳥美波比神社の前で北へ折れ、
東側入口まで、ズラッと並んでいた。
境内は、千種の森と呼ばれる神域で、
一夜にして種々の樹木が育ったと言われている。
本社を含めて、和泉国式内社の中で、
大鳥と名の付く5社を、大鳥五社明神という。
大鳥神社(本社)、大鳥神社、大鳥美波比神社、大鳥井瀬神社、大鳥濱神社。
社伝では、元々日本武尊一柱であったが、
明治初めの官社祭神考証によって、大鳥連祖神とされてしまったとある。
その後、念願の増祀が叶い、2柱となった。
日本武尊を当社の祭神とし、天照大神と日本武尊の三妃を
大鳥五社明神のそれぞれの祭神とする説だ。
他に、新撰姓氏禄・和泉国神別に、
「宮処朝臣 大中臣朝臣同祖 天児屋根命之後也 大鳥連 同レ上」
とあり、大鳥郡大鳥郷は大鳥連の本貫地と考え、
大鳥連に関連・派生する支族の守護神を、大鳥五社明神にあてる考えもある。
ということで、現在、祭神は日本武尊、大鳥連祖神の二柱である。
境内社・大鳥美波比神社も式内社である。
大鳥五社明神の一。
垂仁天皇28年白鳳の姿に化して蜂峯に降臨し、
北王子村に奉祭されていたが、明治6年、大鳥大社境内の神鳳寺本堂跡へ遷座。
その後、式内社・押別神社などが合祀された。
合祀された押別神社は、別名・別松宮と呼ばれ、祭神は押別命。
古社地は、鳳駅前商店街南であった。
本殿の後方、垣の外に祠があり、中にへ上部に窪みのある石柱が立っていた。
社務所で聞いてみようと思っていたが、聞き忘れてしまった。
社号標と鳥居 | 鳥居 | 参道の祭神像 |
拝殿前の八角鳥居 | 八角柱の拡大 |
拝殿 | 神門 |
大鳥造の本殿 |
境内 |
大鳥美波比神社 | 拝殿 |
本殿 | 御神馬像 |
稲荷社 | くすの木 | 境内社 |
社殿後方への参道 | 社殿後方、垣外の祠 | 中には石柱 |
大鳥大社由緒
日本武尊は景行天皇の皇子にして勅 を奉じ熊襲並に東国を平定、帰途伊吹 山の賊を平げたとき病を得て伊勢国 熊褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と 化し御陵を出で大和国琴引原、次に 河内国古市にとび最後に此の地に留り 坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える。 又、大鳥連祖神は大中臣と元を一に し祖先は天の岩戸開きに功を立てた 天児屋根命である。 聖武天皇の御世には僧行基が勅願により 神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を 建立したが明治の神仏分離により廃寺と なり当社は明治四年五月官幣大社に列格。 社殿は大鳥造と称して神社建築史上 貴重な様式を今に伝えている。 −参道案内より− 大鳥大社由緒略記
当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、
和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十
五社の一つであって、しばしば臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観三年七月
には従三位に叙せられ後正一位に御昇階になりました。御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところ でありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、にわかに病におか かりになり、伊勢国能褒野に於て死去あそばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去 り給い、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたの が当社の起源であって今から約一、八五0有余年前であります。 また、大鳥連祖神様は、この和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にす る大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先 とすると伝えられております。当社は明治四年五月祭神日本武尊として官幣大社に 列格になりましたが、明治九年一月天覧に供しました官社祭神考証においては、祭 神大鳥連祖神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、以来 当社の歴代宮司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、ついに明治二十九年 十月三日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条 左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としては これ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和三十二 年六月二十八日付にて、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、ここに御祭 神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする二座の御社となり御神慮に御応 え申すことが出来たのであります。 御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父 子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織 田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度にわたって奉仕してお ります。また、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳 寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。 −『平成祭データ』− |