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飯道神社
はんどうじんじゃ
滋賀県甲賀市信楽町宮町字飯道山7
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滋賀県甲賀市にある。
飯道山(はんどうさん664.2m)の西側中腹(七丁目)に鎮座。
地図を見ると、飯道山の南側から当社東側へ通じる道があるようだが、
その道は私道のようでゲートがあるらしい。
(僕は未確認なので、ひょっとすると車で境内まで行けるかもしれない)
ということで、
飯道山の西麓、ゴルフ場の南側にある53号線から境内へ向かう。
53号線からの入口に当社の鳥居が建っているので迷うことはない。
鳥居脇の道から飯道山へ向かって登っていくと、
当社の駐車場に到着する。
駐車場から山道の参道が続き、
神社境内まで約30分の登り道。
参道脇には「一丁目」「二丁目」と刻まれた石碑が立っており、
七丁目が社殿のある境内。
駐車場の鳥居をくぐると、すぐに白鬚神社がある。
飯道山登拝のための禊の社のようだ。
山道を登っていくと、地蔵が祀られていたり
巨石が転がっていたりと、体力的には苦しいが
精神的に飽きさせない登り道。
しばらく登っていくと、参道正面に石組が見え始め、
弁天堂があれば、すぐに境内。
境内入口の鳥居をくぐると、
右手に大きな「鏡の大岩」。
境内には、この岩の他にも名前の付けられた石が幾つかある。
さらに参道を進むと「七丁目」の石碑がある場所に行者堂。
階段を上ると、社殿のある広い境内。
参拝は、年末の休日。
境内の隅には、少し雪が残っており、
山道で火照った肌に、風が心地よい。
社殿は、拝殿と後方に入母屋造の複雑な構造の本殿。
案内によると慶安三年(一六五〇)再建の華麗な本殿で
重要文化財に指定されているらしい。
丹塗りの美しい社殿なのだが、屋根に雪が残り
コントラストが強くて美しく撮れなかったのが残念。
新緑の春や紅葉の秋には、かなり美しい写真が撮れるかも。
当社社号「飯道神社」は、境内案内板によると「ハンドウ」と読む。
飯道山(ハンドウサン)の神社なので、「ハンドウ」で良いと思うが
『滋賀県神社誌』等には「イヒミチ」と書かれている。
「ハンドウ」は神仏習合時代の名残なのかもしれない。
創祀年代は不詳。
飯道寺の寺伝によると、和銅七年熊野三社を勧請したという。
式内社・飯道神社の論社、
というより甲西駅近くの針に鎮座している飯道神社を里宮とした
飯道山山上の奥宮にあたる神社。
『近江輿地志略』には、「飯道」の社号に関しては
「此神飯を持ち道を踏みわけ給ふにより飯道大明神と名づく」とあるらしい。
聖武天皇による紫香楽宮遷都の時、
王城の鬼門守護として天平十五年、
天台宗の僧安皎が五院を創立。
後分かれて三十六院となり、当社を飯道権現と称して
飯道寺の鎮守としたらしい。
元慶八年従五位上から従四位下を授けられ、
久安二年近衛天皇より「飯道権現」の勅額を下賜された古社。
平安時代より神仏習合の聖地であり
殊に修験道場として隆盛を極めたという。
明治初年まで飯道寺が所在していたが、
神仏分離により当社社殿のみが残された。
西麓の鳥居 | 参道入口 |
禊の社、白鬚神社 | 参道 |
境内 | 弁天堂 |
参道 |
鳥居 | 鳥居護法石 |
鏡の大岩 |
参道 | 行者堂 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
本殿 |
本殿前の石 | 権現社(石) |
本殿右手の巨石 |
境内左手に「行者コース」という修験の道がある。
全長350mほどの山道で、急峻な道や鎖などで進んでいくらしい。
面白そうなので歩いて見た。
少し下っていくと、天狗の岩があるのだが
その先から道が無い。というか枯葉が積っていてよくわからない。
さらに雪解け水のため、枯葉が滑って歩き難く危険なので断念。
想像では、本殿の後方を通って、
本殿右手の巨石の間から出てくるのだと思う。
行者コースの天狗の岩 |
重要文化財 飯道神社本殿
飯道神社は、神体山の信仰から発して神社社殿の建立に進展
したものと考えられるが、延喜式神名帳にも甲賀郡内八座の一つと
して名を並べ、三代実録には元慶八年(西暦八八四年)に従四位下の
格に上ったと伝えられる。飯道寺の隆盛と神仏習合思想に
より、長い間飯道寺と一体になってまつられてきたが、神仏
分離令以後寺は廃絶し、山上に残る古建築は本殿のみとなった。現在の本殿は、建物の部材に記された墨書により、慶安三年 (一六五〇)に再建されたことが明らかで、桁行三間、梁間三間の 屋根を入母屋造とし、正面三間の向拝は縋破風の軒に作り 屋根正面に千鳥破風を、向拝には軒唐破風をつけた変化に 富んだ構造である。内々陣を素木とする以外は、丹・漆塗り、 金箔押し及び極彩色を施し、飾金具を散りばめた華麗なもので 蟇股や手挟などの彫刻は江戸時代初期の技法で写実性を もっている。正側面の庇や背面の囲いは、本殿を保護する ための施設であるが、昭和五十年から同五十三年にかけて 行った解体修理工事中の調査により、現本殿建築当時から 設けられたものであることが立証された。 −境内案内より− |