[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
志那神社
しなじんじゃ
滋賀県草津市志那町727
|
||
滋賀県草津市にある。
草津駅の北西5Kmほどの志那町に鎮座。
草津駅から琵琶湖へ向かって進むことになるが、
どの道を通ったのかよく覚えていない。
とりあえず、志那漁港を目指して車を走らせると、
道の北側に参道入口の鳥居が見える。
鳥居の右手には「志那神社」と刻まれた社号標が建っており、
左手には案内板。
鳥居をくぐると、木立の参道が70mほど。
参道突き当りに、白壁に囲まれた境内があり、鉄の扉が付いている。
この扉がいつも開いているのかどうかはわからないが、
参拝した年末休日には開いていて、
境内には一台の軽トラックが停まっており、
迎春準備をしている様子だった。
境内の中央に拝殿があり、境内右手には藤棚がある。
この藤棚の由来は調べていないが、
当地方の神社境内には、よく藤棚がある。
この後参拝した三大神社には「老藤由来記」として
天武天皇の勅により、藤原鎌足の葬られた談峯の藤花に因んで、
藤原氏の隆盛を祈念して、倉橋山の藤を移植したとあり、
当社の前に参拝した惣社神社では「惣社大藤の縁起」として
天武帝の除病延命仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まるとある。
当社の藤も、天武天皇の頃に起源を持つ藤の一つなのだろうか。
拝殿の後方には、三棟の社殿があるが
中央の社殿が、当社の本殿。
左の新しい社殿が摂社・白山神社で、右が摂社・八幡神社だと思う。
創祀年代は不詳。
社伝によると、当社が式内社・意布伎神社であって
いかなる理由によってか、社号が改称されたという。
清和天皇貞観九年の奉納である鏡や鈴が現存し、
鏡には「奉近江国伊富伎神」、鈴に「貞観九年四月」と銘があるらしい。
特殊神事として、豊年万作を祈願し
団扇二つでその風景を示す「さんやれ踊り(風神踊り)」があり、
また、昔は志那三郷(志那・吉田・志那中)より馬を出して競馬を行い
豊作の吉凶を占ったという。
境内隅に、石碑が祀られていたが、刻まれた文字を確認し忘れた。
写真を見ると、注連縄で一文字が良く読めないのだが、
「黒姫明神」と刻まれているのだろうか。
境内左手に神馬像があり、
その腹部に、神紋が金色に塗られていた。
三羽の雀の中央に、篠笹らしきものがあり、
正式な名前がわからないので、とりあえず「篠笹に三つ雀」と記しておく。
ページ掲載のため、この神紋を自作してみたが、
図案が複雑で、なかなか思うように描けず、
仕方がないので、神馬像の金の紋を加工して掲載させていただく。
『式内社調査報告』には、境内に南北朝時代の宝塔があると記されているが
参拝時には気付かず、写真にも写っていなかった。
また、境内左手奥に由緒書の石碑があるのだが
写真が下手なせいか、刻まれた文字の一部が読めず残念。
鳥居 | 参道 |
白壁の中に境内 | 境内 |
拝殿 | 境内右手に藤棚 |
社殿、左右に白山社・八幡社 |
本殿 | 本殿 |
白山神社 | 八幡神社 |
黒姫明神? | 神馬像に神紋 |
本殿は一間社流造、桧皮葺で小さくはある が純然たる和様建築であり、永仁六年(一二 九八)の再建とされている。(棟札保存) 斗栱間には美しい蟇股をつけ、内外陣とも 小組天井で鎌倉時代の特色をよく残している。 普賢菩薩像は寄木造、玉眼で唐草文、花文 などで彩色されているが、結跏趺坐、合掌の 佛相は極めて理知的で、宋朝風の中にも洗練 された彫刻と言えよう。 像底に「建武元年戊戌十二月」の朱書銘が あり、これまた南北朝時代の作風を代表する 貴重な文化財である。 昭和二十四年二月十八日 国指定(本殿) 昭和四十一年七月四日 県指定(普賢菩薩像) −参道案内板− 重要文化財 志那神社本殿
昭和二十四年二月十八日指定
志那神社の創立については明らかでない
が、平安時代には社殿があったと考えられ
ている。祭神は志那津彦命、伊咲戸主命を
祀る。現在の本殿は永仁六年(一二九八)に大 工藤井宗近によって建てられたことが棟木 に記されている。 形式は一間社流造。本殿内部は半円柱を 壁際に建て、建具を備えて内陣と外陣に区 切る。正面柱間寸法は一・五三メートルの 小規模な一間社。 母屋柱上に舟肘木をのせた社殿本来の簡 素な構造であるが、柱の太さや屋根の反り 上がりに調和のとれた鎌倉時代を代表する 気品ある一間社本殿の好例である。 −社頭案内板− |