[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
下御靈神社
しもごりょうじんじゃ
京都府京都市上京区信富町324
|
|||
式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也 |
京都市中京区にある。
京都御所の南西すぐ。
到着した頃から雪が降り始めた。
社伝によると、大同二年(809)、不運の内に亡くなった
伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊を慰めるため
承和六年(八三九)に仁明天皇によって創建されたという。
もとは、京極の東にあった下出雲寺の鎮守として祀られ、
後に、新町近衛に移され、天正17年、秀吉の都市改造で現在地へ遷座。
季節のせいか、雪のせいか、あるいは御霊神社だからか、
境内はひっそりとしている。
境内社の五座相殿社には、
日吉大神、愛宕大神、大将軍八神、高知穂神、斎部神が祀られている。
垂加社には、儒学者山崎闇斎(1618〜1682)を祀る。
当社の神官出雲路信直が闇斎の門下に学び、
当社には闇斎の遺品を多数納められている。
また、柿本大神は中御門家に祀られていたが、明治十一年猿田彦社に合祀された。
鳥居 |
神門 | 舞殿 |
社殿 |
柿本大神、猿田彦大神、垂加社 | 稲荷大神 |
宗像社 | 五座相殿社 |
大国主命社 | 天満宮 |
八幡宮、神明社、春日社 |
藤原大夫人・伊予親王 伊予親王〔桓武天皇の子、平城天皇の弟〕 平城天皇の大同二年(807)、藤原宗成の勧めにより謀反の意志があったが、発覚した。親王及びその母藤原夫人(ぶにん)吉子は捕らえられ、川原寺に押し籠められ食を断った〔平城天皇は同腹の弟神野親王を太子としたので、伊予はこれを恨んだのである。神野は後に嵯峨天皇と号する。〕。両人は薬を呑んで自殺した。宗成は流罪になり、大納言藤原雄友〔伊予親王の外舅〕は伊予国へ流された。 −『和漢三才図会』− 他の祭神については、上御霊神社を参照。社伝によれば、大同二年(八〇九)不運のうちに亡くなった 伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊をなだめる ために、承和六年(八三九)に創建されたといわれている。祭神は、 後に、崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、 文屋宮田麿、火雷天神を加えて八所御霊としている。 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから 下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々 とし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市整備により当地に 移転してきた。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間 (一七一六〜三六)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。 本殿は、寛政三年(一七九一)仮皇居の内侍所を移建したもので、 表門は、旧建礼門を移したものといわれている。 境内の垂加社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎を祀る。 −境内案内より− |
【 下御霊神社 】