[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
護王神社
ごおうじんじゃ
京都府京都市上京区桜鶴円町385
|
|||
旧別格官幣社 |
御所の西。蛤御門の所にある。
京都到着直後に参拝。御神籤は凶後吉。
境内はそれほど広くはないが、綺麗な神社。
もとは高雄山神護寺境内にあり、護王善神社と称していた。
嘉永四年三月十五日、和気清麻呂公命に正一位護王大明神の神階神号を授けられ、
明治七年十二月二十二日、別格官幣社に列せられるに及んで、
明治天皇の勅命により、現在地の京都御所蛤御門に社殿を造営。
明治十九年十一月三日遷座した。
祭神・和気清麻呂公は、奈良中期より平安初期にかけての官人。
本姓は磐梨別公、または藤野別真人を称したが、和気宿禰さらに和気朝臣に改姓された。
備前国藤野郡に生まれ、その後、孝謙天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって出仕。
皇位を望んだ弓削道鏡の事件に際し、姉に代わって宇佐八幡に使し、
神託をうけてこれを阻止した。
神楽殿には猪の狛犬、「狛猪」がある。
祭神・和気清麻呂公が宇佐八幡の神託により、
弓削道鏡の野望をくだいたが、その恨みから大隅へ追いやられた。
その途次、宇佐八幡へお礼詣りに向かったが、足を痛めてしまった。
すると三百頭の猪が公を取り囲み、宇佐八幡までの道のりを無事に案内した。
ということで、足腰に御利益のある神社らしい。
神楽殿 |
狛猪 | 狛猪 |
拝殿 |
護王大明神、足腰に御利益 | 御神木根元に願掛け猪 |
境内の祭神・清麻呂像 |
地域の物故者を祀る近衛社 | 久邇宮家御霊殿 | 警察消防招魂社 |
護王神社 桓武天皇に遷都を進言し、 平安京の都造りを推し 進めた和気清麻呂とその 姉広虫を祭神とする神社。 もとは、神護寺境内にあっ たが明治十九年(一八八六) この地に移された。 広虫が慈悲深く、京中の 孤児を養育したことによ り子育て明神と呼ばれ、 育児の神として信仰される。 拝殿の前に狛犬のかわり に猪像があるが、これは 清麻呂を猪が守護した という故事にちなむ。 十一月一日に亥子祭がある。 −門前案内− 御創建と御祭神 当社は初め高雄山神護寺境内にあって、護王善神社と称していたが、嘉永四年三月十五日、孝明天皇、和気清麻呂公命に正一位護王大明神の神階神号を授け給い、また、明治七年十二月二十二日別格官幣社に列せられるに及んで、特に明治天皇の勅命により現在地の京都御所蛤御門に社殿を造営し、明治十九年十一月三日、遷座した。 さらに、正式に大正四年十一月十日、子育明神和気広虫姫命を御祭神に合わせ祀った。 御祭神和気清亜呂公命 公は、天平五年(七三三年)吉備国藤野郷(現・岡山県和気郡和気町)にお生まれになられた。その祖先は、垂仁天皇皇子鐸石別命から出ており、実父は国造であった。長じて宮中に武人としてお勤めになられた。 神護景雲三年(七六九年)、恐れ多くも、僧道鏡、天皇の御位を内謀によって奪わんとした時、清麻呂公は、勅命により死を決して宇佐八幡宮に詣で、神託をお受けになられた。それより以前、道鏡は自分の非望がかなった時は公を大政大臣の位につかせるとそそのかしたが、公の御心はただ天皇への忠節のみにありさ揺ら偽もなかった。 ”宇佐八幡宮神託”「我が国、開闢以来君臣の分定り。臣を以て君と為すこと未だ来れあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は迅に掃除すべし。」(わが日本の国は、神代の時代から天皇と国民との分が定まっている。国民をして天皇の御位に即位することは、絶無である。天皇の御位は天皇の血統者がつぐものであり、道鏡のように無道な者はすみやかに掃除せよ。)以上の宇佐大神の神託をうけて直奏したところ清麻呂公は道鏡の怒りにふれ、名を変えられ大隅国へ配流された。しかしながら、大義を明らかにした公の偉勲は、ついに萬世一系の皇統をお護りし、また道鏡追放の原因ともなったのである。 公の功績は政治家としても多大であり、河内川・神崎川の水運灌漑工事を始め、尼崎港の建設、「民部省令」の編纂、日本初の私立大学「弘文院」の創建、私田一百町歩を挙げての貧民救済、また、現在の京都市に平安京を遷都する建策をして、造営大夫を任ぜられるなど、その高徳はあまねく国民に知られるところである。 公の精神は、後世、楠正成公とともに国民に大きな感化を与えた。この精神は日本人の千古にかよう不滅の道義であると云える。我々国民は和気公の精神(護王大精神)を心に思い、立派な人生を送らねばならない。 −『平成祭データ』− |
【 護王神社 】