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生田神社
いくたじんじゃ
兵庫県神戸市中央区下山手通1−2−1
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式内社 攝津國八部郡 生田神社 名神大 月次相嘗新嘗 |
神戸三宮駅のそばにある。
境内入口の鳥居をくぐると、大きな朱の鳥居。
鳥居の左右に、境内社の大海神社と松尾神社が鎮座。
鳥居の奥に、朱の美しい楼門がある。
楼門のそばには、謡曲「箙」に登場する箙の梅。
源平盛衰記において、源氏方の梶原景季が、多勢の平家方に囲まれ
箙(矢を入れて背負う道具)に梅を指して奮闘したという。
また、義経の代理として当社へ参拝した弁慶が奉納したとも
神功皇后が鮎を釣って戦の勝敗を占ったともいわれる竹が植えられている。
楼門をくぐると、正面に拝殿。
拝殿の奥に本殿があり、本殿の左右には
日吉神社、諏訪神社、八幡神社、住吉神社が並んでいる。
神功皇后が新羅征伐の後、難波へ凱旋の折り、
海中が旋回して船が進まない。
務古の水門に引き返し、神意をうかがったところ、
稚日女尊が、「吾、活田長峡國に居らまく欲す」と。
そこで、海上五十狭茅に祀らせたのが当社のはじめ。
平成7年1月17日午前5時46分、
阪神大震災で倒壊した社殿も今は復旧し、鮮やかな朱だった。
都会にあるため、通勤路になっている。
学生や会社員が気楽に通って行く。
境内の右手には塞神社(道反神)・雷大臣神社(雷大臣命)・人丸神社(柿本人丸)。
包丁塚を通過すると奥には稲荷神社。
社殿の後方には、戸隠神社、蛭子神社が並び、
境内左手の池に弁天社(市杵島神社)がある。
境内入口 | 境内の鳥居 |
大海神社 | 松尾神社 |
楼門、脇で御守りを売っている |
楼門扁額、外側 | 内側の扁額 |
境内から楼門 |
箙の梅 | 弁慶の竹、神功皇后釣竿の竹 |
拝殿 |
拝殿 | |
拝殿から本殿 |
本殿左手に日吉神社、諏訪神社 | 本殿右手に八幡神社、住吉神社 |
境内右手に 塞神社・雷大臣神社・人丸神社 | 包丁塚 |
境内奥に稲荷神社 | 蛭子神社 |
戸隠神社 | 境内左手に市杵島神社 |
生田神社 兵庫県神戸市生田区 下山手通。旧官幣中社(現、別表神社)。稚日女尊を祀る。社伝によると神功皇后が外征より凱旋されたとき、務古の港にて「吾は活田長峡の国に鎮る」と神誨されたことにより海上五十狭茅に祀られたと伝えられる。平城天皇大同元年(八〇六)摂津四四戸をもって神封とされ、また清和天皇貞観元年(八五九)正月に正五位上勲八等から従四位下となり、更に進んで貞観一〇年(八六八)には従一位を授けられた。その他『三代実録』『日本紀略』を徴すると、祈雨、鎮疫等の祈請奉幣をしばしば受けていることが散見される。『延喜式神名帳』には、名神大社と登載され、四時祭式には相嘗祭七一座の一に数えられ、臨時祭式には祈雨神祭八五座の一社に列されている。また玄蕃寮式には、新羅の客人が来朝の際、当社で酒を醸し、敏売崎にて蕃客に給せしめたと記載されている。平安時代中期以後の文献としては『枕草子』をまず第一に挙げねばならぬ。「社は布留の社、生田の社、旅の社」とあるのは有名なことで、これは、生田の森、生田の浦等多く歌に詠まれ、『後撰和歌集』『続千載和歌集』『新続古今和歌集』『夫木和歌集』等に載せられていることが大きい因をなしていると思われる。この生田の森は寿永三年(一一八四)の源平合戦、延元元年(一三三六)の楠木正成、足利尊氏の合戦等の際、常に陣地となり、そのために当社も戦禍に見舞われ、その際、貴重な諸文献が失われたのは惜しまれる。社領は二〇〇石を有し(『本朝年代記』『和漢三才図会』)、慶長年間(一五九六−一六一五)には片桐且元が二石を寄進したと伝えられている。現在の社殿は戦災にて焼失したものを昭和三四年再建を果たし、更に境内に生田神社会館も建立された。例祭四月一五日。七月一五日に千灯祭が行われる。また正月社頭に立てられる杉盛は民俗資料となっている。社宝に和田岬神幸絵巻(寛文三年〈一六六三〉)、後陽成天皇宸筆、甲冑(伝平通盛着用)、額(伝平重盛奉納)等がある。 −『神社辞典』− 生田社 生田里(神戸市中央区下山手通)にある。祭神 一座 稚日女尊(俗に天照大神の妹とする。和魂ともいう) 神功皇后が新羅を伐たれた翌年二月に、稚日女尊が誨えて、我は活田長峡国に居りたいと言われた。それで海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に祭らせた。この神は昔(天上の)斎服殿(いみはたどの)にあって神の御衣を織られたのである〔貞観九年(八六七)十二月十六日、従三位に叙す〕。 ○箙の梅 社前にある。梶原源太景季が枝を折り箙に挿したので名づける。 生田は森・池・川・里・浦があり、皆名所である。北は山、南は海である。生田川は布引の滝の末流で、北から南に流れる〔ただし生田里は菟原郡に属す〕。 〔後撰〕幾度か生田の川に立ち帰る波に我身を打ちぬらすらん (読人不知) (「斎服殿云々」を除き『国花記』による)
−『和漢三才図会』− |
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