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長谷山口坐神社
はせやまぐちにいますじんじゃ
奈良県桜井市初瀬字手力雄4593
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奈良県桜井市にある。
近鉄大阪線・長谷寺駅の北300mの初瀬に鎮座。
165号線から長谷寺への参道へ入り、
200mほどで北側の狭い路地を入ると、
初瀬川にかかる朱塗りの橋があり、
橋を渡ると鳥居が立っている。
鳥居の傍らには、
『元伊勢 磯城伊豆加志本宮伝承地域』と書かれた石碑。
参道の階段を登ると、境内。
境内中央に拝殿があり、拝殿の後方、
丘の上に垣に囲まれた本殿が見える。
鎮座地の字名は、手力雄といい、
俗称は、タヂカラヲさんというらしく、
手力雄明神とも呼ばれた神社。
延喜式に、山口神社あるいは山口坐神社と称する神社が
十四社記載されており、
宮殿造営のための御料材伐採のための山の口にいます神として、
また、山口の水の神として、さらには祈雨の神として、
朝廷から深い崇敬を受けた神社であるが、
当社も、その一つ。
一説には、当社は手力雄社であって、
当初の山口社は、現在の与喜天満宮であるともいう。
また、当社は、
垂仁天皇の御代、倭姫命を御杖として、
この地域の「磯城厳橿(伊豆加志)の本」に
約八年間天照大神をお祀りになった旧跡であるといい、
当時、随神としてこの地に天手力雄神を、
北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二柱を鎮座せられたという。
本殿のある垣の門(神紋)に
下がり藤の紋様が彫られていたが、
神紋かどうかは未確認。
神河橋 | 鳥居横に石碑 磯城伊豆加志本宮伝承地 | 参道 |
拝殿後方の丘上 |
拝殿 | 拝殿後方丘上に本殿 |
本殿 |
延喜式内社 長谷山口坐神社 当神社鎮座地は字手力雄とい い、景勝の地で、隠口(こもりく)の泊瀬山 長谷山の鎮護の神として延喜式 神名帳に見え、六所山口社の一 社にあたる古社であって、ご祭 神は大山祇神、天手力雄神、相 殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊 験あらたかにして、あまねく人々 の安泰繁栄と五穀豊饒の守護神 として崇拝されている。 祭礼は、正月、八月三十一日 風鎮祭、十二月九日例祭(俗に 霜月祭ともいう。)なお臨時の 祈祷を行っている。 −参道案内板より− 長谷山口坐神社由緒記 当神社は長谷山の鎮の神として、大古より 大山祇神を祀っている。垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地域の「磯城厳橿の本」に 約八ヶ月天照大神をおまつりになった時、随神 としてこの地に天手力雄神を、また北の山の中 腹に豊秋津姫命を祀る二柱を鎮座せられた。 長谷寺縁起や其の他の古文書によると、この地 方は三神の里、初瀬川は神河、表参道の朱塗の橋 は、神河橋と書かれている。長谷寺験記の冒 頭には、長谷寺開山の時の天手力雄神の霊 現と功徳が述べられている。 聖武天皇の 天平二年(西歴七百三十年)の大和大税帳には 長谷山口の名が見え、当神社の古いことを物 語っている、延喜式内社である。 清和天皇の御代、貞観元年(西歴八百六十年) 九月八日の風雨祈願の奉幣使が当神社に 参拝されている。 中世には天手力雄明神を敬う明神講が うまれ明神信仰は今につづいている。 当神社本殿の建築につき慶長十八年(西歴 千六百十三年)の棟札が残っている。 近世になり、明治四十二年初瀬平田にあっ た豊受神社の豊受姫神(保食の神)を合祀し ている。当神社の鎮座は遠く古代にさかのぼ り、由緒は極めて深く、あまねく人々の安泰 繁栄と五穀豊饒の祈願所として広く知られ また氏子里人の守護神として崇敬されている。 本殿東の山上には磐境があり、ここより東約四百米の 南面山麓に横穴式古墳が残っている。 −拝殿案内板より− 長谷山口神社由緒略記 長谷山口神社は、桜井市大字初瀬小字手力雄に鎮座し手力雄明神ともいう。 古代は、隠口の泊瀬小国と称せられし大泊瀬山、小泊瀬山の長谷渓谷に位置し、風光明媚な所として知られ、和名抄には「長谷」といい「はつせ」とも呼んでいる。 長谷小国地方を一郷として長谷郷と呼ばれていた。 初瀬の語源は、古事記によると「初瀬川猶遠ければ此の地ぞ上瀬なれは初瀬か」とある。 当社は、手力雄命を主神として大山祗命を併せ祀り、延喜式神名帳に「長谷山口神社」と見え、神社明細帳に「祭神大山祗神、天手力雄神、豊受姫命、貞観元年正月授正五位下」とある。 豊山玉石集には、手力雄明神、大泊瀬山の西南の尾崎にあり、延喜式神名帳に「泊瀬山口神社という是なり」と、中世手力雄命を主神となし、大山祗命を配祀せり。 然れども、当社は六処山口社の其の一にして、即ち長谷の山霊を祭れる所なれば、もと大山祗命を以て主神となすべきなり、其の手力雄を祭り、且つ地名をも手力雄とする由来は詳ならず、云云と記されている。 或は仁平二年七月の裏書ある長谷勘奏記に依り、中世神座を転じたるものにあらざるかとも書かれている。 いわゆる、延喜式内社は醍醐天皇の延長五年(西暦927年)に作られた延喜式神名帳に記載されている神社をいう。 大古より長谷山の鎮として大山祗神を祀り、聖武天皇の天平二年(西暦730年)の大和大税帳には長谷山口神社の名が見え、当神社の古いことを物語っている。 長谷寺縁起文や古文書には、此の地は古くは三神の里といい、河を神河という。表参道朱塗の橋には神河橋と書かれている。 垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地に倭国伊豆加志本宮、また磯城厳橿の本ともいわれ、八年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、当時、随神とこの地に天手力雄神、北の山両部山中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。 長谷寺験記の冒頭には、長谷寺開山の時の天手力雄神の霊現と功徳が述べられている。 近世になり、明治四十一年初瀬平田の両部山南端の山麓の老松(「ようがの松」とよばれている)の附近にあったといわれる豊受神社に豊受姫命を祀っていたが、長谷山口神社に合祀され保食神で五穀豊饒の神として崇拝されている。 −『平成祭データ』− |
【 長谷山口坐神社 】