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女代神社
めしろじんじゃ
兵庫県豊岡市九日市上町460−1
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式内社 但馬國城崎郡 女代神社 |
兵庫県豊岡市にある。
豊岡駅の3Kmほど南の九日市上町に鎮座。
円山川が出石川と合流する地点。
312号線から西へ少し入った場所。
JR山陰本線と円山川に挟まれた地に境内がある。
境内入口は東向き。
石鳥居の右脇に「式内女代神社」と刻まれた社号標が立っており、
鳥居扁額にも「式内女代神社」とある。
鳥居をくぐると正面に社務所があり、
参道を右に曲がると当社社殿がある。
ということで、入口は東向きだが、社殿は南向き。
平入の拝殿の後方には、どっしりとした王子造の本殿。
立派な向拝が美しい。
参拝は、曇天の日の早朝。夜明け前。
夜明け前の神社境内は青の世界で、好きでたまらないのだが
写真は手ぶれになってしまうのが困る。
でも、雨が降りそうな日の朝は、
境内の緑も瑞々しくて、動き始める街の喧騒も良い感じだ。
通称は、お女代さん(おめしろさん)。
女性っぽい雰囲気だが、祭神は高皇産靈神。
ただし、豊受姫命とする説もあるらしく、
また、当地のシャーマン的女性であるとする説も。
創祀年代は不詳。
仁寿元年正月に正六位に叙せられ、
式内社・女代神社に比定される古社。
当社は浮島明神とも称されたようで、
当社が円山川と出石川の合流する低地にあり、
たびたび洪水にあって、社殿が浸水するためだとか。
ただし、河を利用した船運とは密接な関係があり
高瀬舟などの航行の目標となっていたという。
鎮座地名の九日市も商いに関連したものだろうか。
戦国時代の天正二年に本殿を建立し
神領五百石を有していたが、秀吉によって没収された。
江戸時代、豊岡・出石両藩主より崇敬を受け、
延宝七年を建立し、宝暦七年に再建。
志賀剛によると、境内の森にメジロが棲んでいたから
女代となったということだが、それは安易すぎないか?
明治六年村社に列した。
拝殿の左手には、東向きの稲荷神社と南面する秋葉神社。
ともに明治二年の創建という。
賽銭箱や社殿の屋根には、花沢瀉紋の金装飾が光っている。
境内入口 | 参道 |
境内 |
稲荷神社 | 拝殿 |
秋葉神社 | 本殿 |
本殿 |
御由緒
当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。 仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦八五一年) 往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和、元禄年間等一再ならず、僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。 然るに天正五年(安土桃山時代)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永六年(江戸時代初期)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空し。其の後明和三年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。 文化五年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる(由来神祇官西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明なり。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものなり) −『平成祭データ』− |