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摩氣神社
まけじんじゃ
京都府南丹市園部町竹井字宮ノ谷1
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式内社 丹波國船井郡 麻氣神社 名神大 |
京都府南丹市にある。
園部駅の西7Kmほどの園部町竹井に鎮座。
園部川に沿って、9号線を2Kmほど北上し、
さらに園部川に沿って、477号線、54号線を西へ4Kmほど。
そこから園部川を越えて南下すると、当社前に到着する。
境内は胎金寺山の北麓に北向きに鎮座している。
その北向きの鳥居をくぐり、50mほどの参道を進むと神門。
神門をくぐると広くて綺麗な砂利の境内。
境内中央に萱葺の美しい拝殿があり、境内左手に舞殿。
拝殿の後方に、萱葺の覆屋根の中に流造の大きな本殿がある。
本殿の左右にも萱葺の覆屋根があり
いくつかの末社を合祀して祀られている。
参拝は夏の休日の午後。涼しくなってきた境内には僕一人。
巨大で質素に美しい社殿にしばし見とれる。
美しいのだけれど、決して華美ではない圧倒的な存在感を持つ神社だ。
この萱葺の屋根の維持には相当な苦労が必要なのだろうと思う。
境内の右手に緑の小路があり、
奥の林の中に何かが祀られていた跡(石の基礎)があった。
何だかわからないが、大事な場所のような気がした。
霊感は皆無なので、気のせいかもしれない。
ひょっとすると、江戸時代に焼失した胎金寺の跡かもしれないが。
摩気郷十一ケ村の総氏神として崇敬された神社で
式内社・麻氣神社に比定される古社。
創祀年代は不詳。
社伝によると、嵯峨天皇弘仁二年(811)空海による勧請という。
ただし、『新抄格勅符抄』によると
称徳天皇神護景雲四年(770)神封一戸を奉じられていることから
もっと以前から奈良時代以前には存在していたと思われる。
文徳天皇仁寿二年(852)十一月官社に列し
清和天皇貞観元年(859)正月従五位上を授けられ
醍醐天皇延喜の制では名神大社に列し
祝部を置いて奉仕させた大社であった。
その後次第に荒廃していったが、白河天皇の崇敬により復興。
船井第一摩気大社の社号と勅願を賜った。
江戸時代園部藩主の祈願所となり
藩主ならびに代理者の参拝が多かったらしい。
宝暦十一年(1761)、隣接していた胎金寺より出火して
社殿・宝物をことごとく火災により焼失したが
明和四年(1767)には、藩主小出英持や地域住民によって再興された。
明治六年郷社に列し、大正五年府社に昇格した。
現在の祭神は大御饌津彦命、食物神だ。
当社の神事には農業神を祀るものが多いらしい。
ただし、『平成祭データ』の当社由緒では、
大御饌津彦命は、天児屋根命の御子神・天忍雲根命のこととなっている。
神門の屋根に桐紋と巴紋が付けられていたが、
幕などには桐紋だけが染められていた。
摩気郡の総氏神として、
本殿の左右には近郷各地から集められた神々を祀る。
左の社殿には、山王大神・八幡大神・八幡大神、
恵比須大神・八幡大神・葛木大神が祀られている。
右の社殿には、月読大神・若宮大神・三輪大神、
加茂大神・熊野大神・菅原大神、菅原大神・大森大神。
境内左手には、神宮遥拝所と小さな祠が4つ、
塞神社、琴平神社、山王神社、稲荷神社が祀られている。
当社から3Kmほどの船坂に御旅所の神殿があるらしい。
残念ながら、参拝時には知らなかったので訪ねていない。
社頭 | 鳥居 |
参道 | 神門 |
境内 |
舞殿 | 塞・琴平・山王・稲荷と神宮遥拝所 |
拝殿と本殿 |
本殿 | 本殿 |
中央の本殿 |
本殿左の 山王大神・八幡大神・八幡大神 恵比須大神・八幡大神・葛木大神 | 本殿右の 月読大神・若宮大神・三輪大神 加茂大神・熊野大神・菅原大神 菅原大神・大森大神 |
本殿 |
境内右手奥に | 何かがあった跡? |
当社は延喜式内の名神大社で(延喜式三及十、名神祭二百八十五座の中の大社)、祭神は大御饌津彦神(おうみけつひこのかみ)である。昔は摩気郷十一ケ村の総氏神であったので摂社にこれを祀る。称徳天皇の神護景雲四年(七七〇年)勅して神封一戸を充て給い文徳天皇の仁寿二年十一月(八五二)勅使を遣わされて幣帛を奉られ清和天皇貞観元年正月(八五九年)神位従五位上を賜った。醍醐天皇の朝、延喜の制により名神大社に列せられ祝部(はふり)をおいて奉仕せしめられた。 名神大社とは名神祭にあずかった神社に対して名付けられた名称で、官国幣の大社中、年代も古く由緒正しく崇敬の深厚な神祇を選んで特に奉称したものである。名神大社の中、往古国家の事変に際し祈願のため奉幣して神祇官を遣わす臨時勅祭を行なうを名神祭という。 その後ようやく荒廃に到らんとしたが、承歴三年(一〇七九)白河天皇行幸され其の御崇敬により神事祭礼の旧式を復興し給い、「船井第一摩気大社」の勅額を賜った。後水尾天皇の元和五年(1619年)に小出吉親公封を園部に移して藩主となつてからは、領主代々の祈願所となり、神社建物の一切は官営となっていた。 宝歴十一年十二月十八日(一七五一年)不幸火災を被り全焼、宝物其の他一切烏有に帰したが明和四年(一七六七年)に時の藩主小出英持公、社殿を始め一切の建物を再建され現在に至る。 白河天皇以来、当社は九品寺の鎮守として尊崇され、明治以来以前まで久しく当町船阪にある九品寺(真言宗)が当社及び各村末社の祭祀一切を主宰し、本社は当時ここに建てられた神宮寺胎金寺の別当職の社僧により奉仕され、白河天皇皇子覚行法親王も深く御崇敬になり屡々行啓参拝のことがあったが、明治元年神社制度の確立により神仏混淆禁じられ爾来このことは止むに至った。 このように皇室の御崇敬、領主の尊崇も深かったのであるが、明治六年郷社に列し同四十三年神饌幣帛料指定の神社となり、大正五年三月六日府社に昇格となった。 御祭神大御饌津彦神は、天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)の尊称であって、天御中主神十一世の御孫である天児屋根命の御子である。神代の昔、天祖天照大神が皇孫瓊瓊杵尊に神勅をもって「豊芦原の瑞穂の国を安らかな国として治め、天津日嗣の高御座(皇位)にあって天津御饌を永遠の御饌とし、幾千代変わることなく尊い土地として治めよ」と仰せられて、この国にお降し遊ばされて後、御父の天児屋根命は皇孫に従い仕え奉り、皇孫の御食の水には現国の水に天津水を加えて奉れと申されて御子天忍雲根命をして天上に行き天津水(あまつみづ)を乞わしめられた。そこで命は天の神漏岐、神漏美命の詔により、天玉串を刺し立て、夕方から朝日の照るまで、一心に天津詔詞の太詔詞を申されて遂に天八井(あめのやい)の水を乞い受けられ、天よりお下りになって天神の神勅の通り天津水を奉られた。これより歴朝の大嘗祭に奉る悠紀、主基の大御酒を始め、皇孫命の大御食の水には其の天津水を奉る例となり、命の御仁徳により国民の五穀は豊かになつた。この奇霊の御神徳と御功績により、天忍雲根命を称え奉って大御饌津彦神と申し、農業、食物主宰の神としてお祀りしたものである。 このように五穀の豊饒を守り給い、食糧を始め我が国産業の発達を守護されるのみでなく、御心性非常に情け深く且つ勇ましく優れていられたので国土の安穏、平和を守らせられ国民を慈しみ給うみいずまことに尊く高いのである。 (巷間伝えていう、明治三十七.八年戦役の時、某日本兵満州の戦場に友軍と離れて飢餓にさ迷い夜中夢の中に白髪白衣の老人現われて一椀の粥を与えて曰く、「これを食してわが指さす方に進め」兵士大いに喜び粥をすすれども尽きず、其の名を尋ねるに「我は丹波北向きの神なり」とのみ答えて姿を消したが、兵士力を得て老人の示す方向に進み無事友軍に帰るを得たという)丹波北向の神は当摩気神社唯一という。 摩気の村名は社号より定まり、社名は祭神より起こったものである。御饌(みけ)神社の「み」が「ま」となって摩気神社と号し、その郷を摩気郷といつたのである。饌(け)は食物の古語で「みけ」は神に奉る御食べ物の意である。現在の竹井は「上新江」と呼ばれ今の仁江を下新江と呼んでいた。即ち昔は現在の竹井、仁江を「新江郷」と称していたものである。 「新江」は即ち「新饗」であって新穀を神.人に饗ること(大言海による)である。大御饌の神に奉る、またはその御神徳により作られる新穀の土地を称えて呼んだ名で、まことにゆかしい由緒ある土地と申すべきである。この事は昔から竹井の氏子の家で精米をするのに、足踏みの「から臼」は決して使わなかったことでもうかがえるのである。 毎年十月十五日町内船阪(約三キロメ〜トル東方)のお旅所における例祭神幸の神事に、牛馬をひき、鋤をかつぎ、俵を持って廻るのは当祭神奉祀の昔、時あたかも陰暦五月五日の田植時で、村民皆、すき、くわを持ち、牛をひいて供養したと伝えられる古事と共に農業主宰の神であることを尊崇する意である。 また、現在も往古からの例により六月五日創祀を記念してお田植祭を執行し、宮主の奉る「ちまき」を早苗に見立てて、神前で田植の手振りを行い、お神楽をあげて乙女のお田植踊りを奉納している。 −『平成祭データ』− |