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玉置神社
たまきじんじゃ
奈良県吉野郡十津川村玉置川1
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奈良県吉野の玉置山山頂にある。
熊野本宮から向かったので、168号線を北上し、
十津川温泉を越えて、折立あたりから案内に沿って山頂を目指す。
道は想像していたよりも整備されており、駐車場も広い。
駐車場から鳥居を通過し、徒歩で20分歩くと、到着する。
木々の茂った参道は、湿気を帯びた空間。
冬の参拝は、瑞々しさを感じるが、夏はどうなんだろう。
しばらく歩くと、若い神職の方が、参道を丁寧に掃いていた。
軽く会釈をして境内に向かう。
本殿前の鳥居が修築中で、緑の覆い。
本殿の撮影に最適だと思える場所にあり、残念。
神武天皇東征の際、熊野上陸後、八咫烏の先導で、当社で休憩したという。
玉置の語源には二説ある。
・熊野早玉の神を、この山に祀り置いた。
・役小角・空海が当山での加持修法の時、如意宝珠を埋め置いた。
また、崇神天皇の御代に、王城火防鎮護の為に創建されたと社伝にある。
あるいは、王城→玉城→玉置と変化したのかもしれない。
天安二年(858)、天台宗智証大師が、那智の滝にこもり、
のち当山で、加持修法し本地仏を祀って以降、神仏混淆となった。
その後、玉置三所権現と呼ばれるようになったが、
「神社辞典」では、他に地主明神三狐神という表現もあるようだ。
なぜ、狐なんだろう。面白い。
御朱印にも、三つの火焔宝珠が押印されており、稲荷を思わせる。
境内には、神代杉をはじめ、夫婦杉・大杉・常立杉・磐余杉など、
樹齢三千年の古木が叢立し、まさに「神域」。
駐車場の鳥居をくぐり、徒歩で約20分、枯葉の参道が続く。
神仏習合の本殿と、右手に社務所・梵鐘。
本殿前の鳥居が修築中で、残念だった。
境内社には、三柱社・玉石社・出雲魂社・若宮社・
神武社・水神社・大日社・白山社など。
だが、なんと言っても、神代杉・夫婦杉・大杉・常立杉・磐余杉
などの杉の古木が当社の象徴で。
神代杉で、祝詞を奏上している方がおられた。
駐車場の鳥居 | 参道から少し離れた御旅所 |
参道 | 参道 | 参道 |
境内の鳥居 | 社務所と梵鐘 |
本殿 |
本殿 | 大日堂 |
神武社、若宮社、本殿 |
本殿後ろの神代杉 |
修築中の鳥居と本殿、この角度が撮影には良いと思う |
創建年代は崇神天皇御宇の鎮座なりと云ふ、社記其後九百年を經て陽成天皇元慶五年十月從五位下を授けら
る、三代實録又同年天台派の僧智證大師那智の瀑布に浴し、當社に登りて加持修法と行へり、此に於てか神佛混淆
の社となり、其後八百有餘年を經て東山天皇元禄四年京安井門跡に屬し、中御門天皇享保十二年十月更に聖
護院に屬す社記、俗に玉置権現と稱し、僧坊四舎あり大和志、大和名所圖會、大和志に「玉置山、有二玉置神祠一、巨鐘一ロ、鐫曰應
保三年、金ロニロ、一曰貞永二年造焉、一曰文安四年懸焉、祝家則玉置氏、其僧舎曰く二多聞院一」と見ゆ、又和州玉
置氏は明神の社人にて、奥州岩城判官平某の後なりと云ふも詳ならず、家の絞章は州濱形也、一説に平中将
資盛の子伊勢國蔦野の住人十郎資平、壽永の亂に玉置山中へ入り、此に地を領し玉置荘司と稱す、元弘の頃
は荘司盛高あり、大塔宮の熊野へ入り玉ふ時、武家方として宮を拒み奉る事太平記に明かなり紀州名所圖會、爾後百
數十年間を經て、明治元年四月に至り神佛分離をなし、構現の號を改めて玉置三所大神と稱し、後郷肚に列せ
らる、王置は實に吉野山彙の高峰にして、海抜三千尺餘、玉置川村は實に此の山中にあり、戸數は僅々十戸に
過ぎざるも、神社は十津川郷中の鎮守にして、其の祭日は人の賑ふこと夥しと云ふ。 社殿は本殿、拜殿、神樂所、社務所、寳藏、茶所、長屋門等を具備し、境内二千餘坪(官有地第一種)あり、松樹多く 羊膓たる山貌殊に神さびたりと云ふ。 −『明治神社誌料』− |