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大田神社
おおたじんじゃ
滋賀県高島市新旭町太田1468
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滋賀県高島市にある。
新旭駅の南東3Kmほどの新旭町太田に鎮座。
安曇川の北岸、河口近くに、境内がある。
参道に松の木と硝子燈(しょうしとう)。
硝子燈は六角石柱の上に六本の鉄筋に支えられた、洋風のランプ。
明治十四年に奉納されたものらしい。
境内入口の鳥居をくぐると、境内。
通常、境内の参道は、拝殿まで真っ直ぐに続いているのだが、
なぜか、当社の石参道は拝殿前で湾曲して後方へ続いている。
その参道の先に渡殿があり、賽銭箱の奥に、流造の立派な本殿。
社伝によると、
延暦年間(8世紀後半)、大伴大田宿禰の後裔である
大伴福美麿河行紀が、当地にきたりて開拓し、
祖先の名を地名となし、
弘仁元年(810)祖神・天押日命を祀ったのが創祀。
さらに、美作国から久米一族が来住し、祖神・天津久米命を
摂社・来目社(のち若宮神社、現在は本殿に合祀)を祀ったという。
のち、文永元年(1264)六月十一日、
國子六所大明神を祀って社殿を再建。
現在の主祭神は、大年神となっている。
慶安元年(1648)頃には、菅原道真公を合祀し、
天満天神宮、天満宮と称するようになったという。
明治五年六月、天満宮の社号を、
式内大田神社に復したもの。
ただし、上記のように明治十四年奉納の硝子燈にも
天満宮と記されており、一般には天満宮であったことがわかる。
社殿の周囲にはいくつかの境内社が祀られている。
参道に沿って、白太夫神社・男山神社・大田護国社。
本殿の後方には、天照大神・豊受大神・春日神社。
社殿の屋根には、梅鉢の紋。
かつて、天満宮と呼ばれていた名残りだろう。
ただし『滋賀県神社誌』によると「三玉」も当社の神紋だそうだ。
実際に見ていないし、どういう図案なのかもわからないので掲載できない。
非常に残念。
境内入口 | 白太夫神社 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
男山神社 | 大田護国社 |
天照大神・豊受大神 | 春日神社 |
明治時代の、石灯籠形 硝子燈。六角形の柱に天満宮という文字がある |
大田神社(太田)
本殿 一棟
このお社は式内社です 大伴大田
宿禰の末裔が延暦年間(八〇〇年ごろ)に この地
に移住して太田村を開き この神社が創立され
ました。本殿は三間社流造・向拝一間
元はこけら葺で 建立年代は 神社に残る
棟札から享保三年(一七一八)であるこ
とがわかりました。近世中期にさかのぼる わりと規模の 大きい神社本殿で、保存状態も非常に良 く 外観に関しては(屋根は除く)ほとんど 当初のままと考えられます。良質の材 料を用い 隅々まで丁寧に仕事がさ れています 彫刻が建物全体にわたり 要所に施され、建立当初の状態をよ く残し、質の高い確かな建築技術で 建立された貴重な建物と云えます。 木造 僧形菅公坐像(胎内納入経)一躯
室町時代(今から約六〇〇年前)の作、
像の高さ二七、四センチ檜材、彩色、
玉眼を入れ、全面に白土の下地をおき、
肉身部は白、衣は黄土色に彩色し、眉
目に墨、唇に朱をもちいた天満大神
像で、胎内に経典類が入っています。木造 僧形女神像 一躯
南北朝時代(今から約六五〇年前)の作、
像の高さ二六、五センチ、檜材、彩色、
ヒノキの一本造り、頭頂に髷を結い、
両肩に髪を垂らし、衣は左前で、両手
は包み、目を伏せた写実的な表情です。
脚部は簡略にした当時の通例の神像です。昭和六二年新旭町指定文化財 −境内案内板より− 大田神社
由緒 当社の創立は明らかではないが、社伝によると延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが始めであるという。 すなわち嵯峨天皇の弘仁元年四月十一日、大伴福美磨と河行紀との建立である。 後に美作国(岡山県)佐良山から久米氏の一族が来住すると、その祖神「天津久米命」を摂社として来目社(後の若宮神社)と称へ蒲生に奉祀した。又「猿田彦大神」をまつったともいう。 当社は延喜制に定められた小社に列せられたいわゆる式内社である。 亀山天皇の文永元年六月一日(昭和五十二年より六百十六年前)に本殿を改築した。この時の御祭神は「六所(りくしょ)大明神」である。 菅原道眞行は應永三十一年九月二十五日に沙門明了比が、京都北野天満宮の管理者である曼殊院法親王の令旨によって勧請した。 吉野時代には相当に信仰圏も確立し、時代の優秀な石造建築の灯籠等も献納され、後奈良天皇の永正年中には新庄城將の浅見対馬守から太刀が一振、天文十三年には同多胡新兵衛から唐鞍壱具が、又同人及び饗庭対馬守入道覺音から鰐口壱個、文禄四年九月には栗太郡青地城主一弘より武運長久の祈願文と社領拾貫文が寄進された。 後西天皇の皇女林丘寺宮栄内親王より、「天満宮」の御揮毫が下賜された。 元禄十五年二月菅公八百年の万灯祭には、京都在住の氏子の歌人青地慶安は、門弟の赤穂義士小野寺十内夫妻等と共に、神祇和歌一巻きを献納、又西洞院大納言田中左近は剣一腰を奉納した。 享保三年より翌年十二月に本殿及び境内末社・四社を、同じく十七年には拜殿を改築した。現在の社殿はこれである。 寛政五年十二月宮中五条殿の御取持にて、曼殊院竹内宮(門跡)の直轄に属し、御書・絵符等を使用することが許された。 文政十二年三月菅公神忌九百年齋行、同年氏子坂江吉右衛門、京都杉浦三郎兵衛より絵馬殿一棟及び神馬の絵馬一面を、奉納される。 天保年中に大溝藩主分部光寧公参拜の上、幣物奉奠せらる。 嘉永五年神忌九百五十年祭を齋行、この年に本殿と拜殿との間に渡廊下を建設する。 明治元年従来の「天満宮」の名称を、延喜式内社の確定により「大田神社」と旧称に復する。 明治六年正徳元年より宮衆(宮座)による神社運営を廃止して、専任の神職を選出する。 明治九年村社に列せられる。 明治十八年三月十八日摂社若宮神社を本社へ合祀する。 明治三十五年菅公神忌千年祭万灯祭を齋行する。奉賛会を「東風会」と称して、会長に祭神の後東坊城徳長をいただく。 小松宮彰仁親王より、社号「大田神社」に御染筆を下賜せらる。現在の鳥居の額の文字はこれである。 英照皇太后(孝明天皇の后)の御物扇子一握を、元千種権典侍内の中條並浪子より奉納される。祭器庫土藏一棟を新築する。 大正四年五月従来の木造両部大鳥居を、石造明神鳥居に改む。 大正十二年菅公御鎮座五百年祭を執行する。 昭和四年二月社務所を新築する。 昭和四年二月九日神饌幣帛供進社に指定される。 昭和二十七年三月菅公神忌千五十年祭万灯祭齋行する。 昭和三十七年三月児童遊園地を造成する。 昭和三十九年十二月十五日、大田護国社を創建する。 昭和五十年十一月菅公御鎮座五百五十年祭を齋行する。同時に神輿庫の改築及び社務所を改造する。 昭和五十二年十一月神忌千七十五年祭半万灯祭を齋行する。 −『平成祭データ』−[原文ママ] |