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住吉大社
すみよしたいしゃ
大阪府大阪市住吉区住吉町2−9−89
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式内社 攝津國住吉郡 住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
境内 式内社 |
南海本線住吉大社駅、阪堺線住吉公園駅・鳥居前駅のすぐ側。
さすがに境内は広く、参拝時は七五三で人も多い。
参道を歩き、橋を渡り、神門をくぐると、縦に並んだ西向きの社殿。
伊弉諾尊が日向の檍原で祓除された時に生まれた、
住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を祭るが、
この筒男の起源は、定かではなく、土(垂加神道)、伝う(鈴木重胤)、
星(吉田東伍)、津之男(山田孝雄)、対馬の豆酘(つつ)、帆柱の筒など。
「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峡、便因看往來船」
神功皇后新羅からの凱旋の時、このような神託があり、ここに鎮座された。
おもな住吉神社は、対馬-壱岐-筑前-長門-難波と続くライン、
つまり、神功皇后凱旋の経路にある。
住吉の神は、人丸や玉津島とともに、和歌の神でもある。
軽皇子の前に出現し和歌を詠んだらしい。
このように度々、人の姿で出現するため現人神としての信仰もある。
記紀神話の鹽土老翁と同一とする説もある。
住吉大社駅を下り、東へ向うと路面電車の通る道路にでる。
道路を渡ると住吉鳥居があり、橋を越えて、神門。
境内は広く、境内社も多い。
社殿は、三殿が東から直線上に並び、第三本宮の南に第四本宮。
各宮は玉垣で囲まれているが、オープンになっており鑑賞できる。
第一本宮だけは、荒垣の外、高倉の位置からのぞいて撮影した。
参道入口 | 参道鳥居 |
角柱の住吉鳥居 |
境内 |
第一本宮 底筒男命 | |
第一本宮内部に角柱の赤い住吉鳥居 |
第二本宮 中筒男命 | |
第三本宮 表筒男命 | |
第四本宮 神功皇后 | |
住吉大社 大阪市住吉区住吉町。 旧官幣大社(現、別表神社)。第一本宮に底筒男命、第二本宮に中筒男命、 第三本宮に表筒男命、第四本宮に息長足姫命 (神功皇后)を祀る。社殿は第一本宮か ら第四本宮まであり、第一本宮を一番奥に、 手前に第二、第三と縦に並び、第四本宮は、 第三本宮の右横に並んで建っている。四殿 ともに、神社建築の最も古い形式の一つ 「住吉造」であり、国宝に指定されている。 また四殿とも西(大阪湾の方向)を向いて 建っていることも見逃せない。『古事記』 (七一二)に「其の底筒之男命、中筒之男命、 上筒之男命三柱の神は、墨江の三前の大神 なり」と見えているが、当社の創祀は古く、 神功皇后新羅遠征の帰途に、筒男三神の神 誨により、神功皇后が、三神の和魂を大津 渟中倉長峡に鎮座されたに始まる。延暦三 年(七八四)正三位住吉神に勲三等を賜い、次 いで従二位、大同元年(八〇六)従一位、後 に正一位になった。『延喜式』には「住吉 坐神社四座」と記され、名神大社として、 祈年・月次・相嘗・新嘗の案上の官幣及び 祈雨、八十島祭に預った。また二二社の 一つに数えられ、摂津国一の宮として、上 下を問はず、篤い尊崇を受けた。特に天皇 の行幸も、天武天皇以来数多く、鎌倉時代 以降は、将軍をはじめ、武家の崇敬も特に 篤かった。建久六年(一一九五)には、源頼朝、 神馬を奉納、楠木正成・足利尊氏・豊臣秀 吉等は篤い崇敬者で、文禄三年(一五九四)、秀 吉は社領を定め、秀頼は慶長一一年(一六〇六) 片桐且元をして社殿を修造させた。江戸時 代に入ってからも、徳川将軍以下諸大名の 尊崇篤く、参勤交代ごとに必ず当社に参拝 する大名が沢山あったという。明治維新の 際、社領、社地の多くが上地された。明治 四年(一八七一)七月一日に官幣大社に列格した。 昭和三六年には第四七回の式年遷座祭が行 われた。住吉の神は、特に海上安全の守護 神として、また禊祓の神・歌神・現人神信 仰などの神徳で、篤い崇敬を受け今日に至っている。 −『神社辞典』− |
境内外社紹介のため、4ページ構成にした。