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阿志都彌神社 行過天満宮
あしづみじんじゃ ゆきすぎてんまんぐう
滋賀県高島市今津町弘川1707−1
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式内社 近江國高嶋郡 阿志都彌神社 |
滋賀県高島市にある。
近江今津駅の北西2Kmほどの弘川に鎮座。
公園の東側で、自衛隊の近くに、南北に長い境内がある。
境内入口は、南側と東側。
多分、南側が表参道になるのだろう。
参道入口には「善積郷社」と刻まれた石碑が立つ。
鳥居をくぐり、緑の広くて明るい参道を歩くと正面に社殿がある。
東側入口には、スダシイの古木が立ち、
林の中に稲荷神社などがあって、古社の怪しいげな趣。
複数の参道がある神社では、参道ごとに違う雰囲気があるので、
時間が有れば歩いてみるのも面白い。
拝殿の後方には、テント地のシートで保護された本殿。
本殿には、「阿志都彌神社」「行過天満宮」の社号が掲げられている。
創祀年代は不詳。
鎮座地は、善積郷と呼ばれた地だが、本来は葦積郷。
祭神・木花咲耶姫命は、別称を神吾田鹿葦津姫ともいい、
葦津姫を祀る故に、阿志都彌神社となったようだ。
(あるいは、阿志都彌神社の名から祭神を特定したとも考えられるが)
木花咲耶姫命を祀ることから、櫻花大明神とも呼ばれ、
また、大鍬大明神とも上野山地主神とも呼ばれた古社。
式内社・阿志都彌神社の論社の一つである。
当社は、菅原道真を合わせ祀っており、
別に行過天満宮とも呼ばれている。
天満宮は、本社の東に鎮座していた、長徳四年創建の神社だが、
天保十四年十二月に、当社へ合祀されたもの。
天満宮でもあるので、神紋は梅鉢なのは当然だが、
木花咲耶姫命ゆかりの櫻や棕櫚なども添えて欲しい気がする。
後に『滋賀県神社誌』で確認すると「山桜」も当社の神紋らしい。なるほど。
ただし、実際に確認していないので、図案的には不明。
よって、一般的な山桜紋を掲載しておく。
境内の右奥には、稲荷神社。
左奥の白山神社は、北生見・南生見にあったもの。
北生見・南生見が自衛隊の演習地となり、
国有地となったため、住民は全て、弘川地区へ移転し、白山神社も遷座した。
東参道の脇には、西近江七福神の一つ、
福禄寿神も祀られている。
南側入口の鳥居 | 東側入口のスダシイ | 東参道の福禄寿神 |
南参道から境内 |
拝殿 | 本殿 |
境内左奥の白山神社 | 右奥の稲荷神社 |
・当宮は神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命を勧請して阿志都弥(あしつひめ)大明神と称したことに始まり、延喜式内の名社で国弊社として祀られ上野山大社、櫻花大明神とも称されています。日本書紀によりますと木花咲耶姫命(葦津姫命)が、天甜酒を醸された御事蹟が登載され、又、推古天皇三十年に新羅征伐副将軍の近江脚身臣が当地に住んで崇敬したお社であります。 御神徳の高い願望成就の神様として広く信仰を集めています。 ・天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶七年に加賀国(石川県)の国守に任命せられて、御赴任の途中に本社「阿志都弥大明神」に御参詣になって、御詠吟などせられて過ぎ行かれた由縁によって、公の御曾孫菅原大輔正朝臣が行過天満大神と称して、長徳四年八月五日に勧請建立になったのであります。尓來善積郷の総社として上野山大社、上野山天満宮、桜花大明神とも称されています。 建久二年三月十五日に海津村神尾山(海津天神社)へ当宮各社の御分霊に道真公直筆の十六禅神、法華経等を添えて分社として遷宮したと伝えてられています。慶応二年四月五日神祇道菅領ト部朝臣良義より善積惣社号の神宜を受けました。学問芸術、厄除健康等神威顕著な神様として崇敬されています。 脇神 福禄寿天様は七福神の一つで、福徳、禄徳、寿徳を備えた霊験あらたかな方でありまして「七福神めぐり」に各地より参詣があります。 ・当宮は古来より善積郷八部落神社の総社として全部落の住民を崇敬者とし毎年四月の例大祭には各部落より出動した人によって神輿を担いで御旅所の住吉神社で祭典をして南浜まで渡御をしましたが、現在は弘川、宮西、中野の氏子によって担いでいます。 倭名類聚妙に登載された当郷社附属の八部落各神社は、白山神社(南生見)、熊野神社(蘭生)、白山・降宮神社(上弘部)、日吉神社(下弘部)、八雲神社(大供)、日枝・大水別神社(南浜)、住吉神社(中浜)、小海・大浜神社(南新保)であります。 皇室との御関係については天智天皇が志賀に都をお定めになられた以後、毎年当地産物の烏瓜の根を献上し又、刈安と言う草を、天皇御衣の黄色染料の原料として奉納していましたが、戦乱が続いたので廃絶しましたが、毎年四月の例大祭には必ず烏瓜の根を献じています。又御宝祚永世御祈祷の命を奉しましたので、以来毎年九月に当宮の御神璽に生栗一籠(約二升)を添えて献上しておりましたので、天皇の御撫物を当宮に御神納になり、毎年九月に新旧御取替になりました。その時金二両の御下賜があり、当宮の神璽を献上しておりましたが、明治四十年命達により廃止になりました。 武家の崇敬については足利三代将軍義満より朱印地(神田七町歩)を寄せられたが、後織田信長の兄の子信澄が没収しました、憎むべきことであります。文禄二年以来毎年金沢城主前田家代々参詣になり、大祭には幣帛両(白銀五枚)の奉納がありました。元治元年松平筑前守慶寧が参詣以来毎年藩主が、又慶応元年大聖寺藩主松平飛騨守鬯侯の参詣以来毎年藩主が必ず参詣して幣帛料を奉納しました。文久二年十月大溝藩主分部若狭守光貞侯の参詣以来毎年大溝藩主の参詣がありました。 −『平成祭データ』(原文ママ)− |