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蛭兒神社
ひるこじんじゃ
京都府京丹後市久美浜町湊宮1662
神風や 朝日の宮の宮移し 影のどかなる世にこそありかれ
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京都府京丹後市にある。
久美浜湾の出口近く、湊大橋の東側に境内がある。
北近畿タンゴ鉄道宮津線の丹後神野駅から久美浜湾沿いに
49号線を3Kmほどだが、当社付近には民宿などが多いようで、
道が少し狭くなったり、クネクネと曲がっているので
もう少し距離があるかもしれない。
小学校の側、道路に面して南向きの境内。
境内入口には「蛭児神社」と刻まれた社号標が建ち、
数段の階段を上ると、石の垣に囲まれた砂の境内。
境内右手には多くの石碑が並んでおり、
左手には、寛政十一年奉納された
「千石船三社丸」の模型が展示されている建物。
正面に入母屋造の拝殿があり、
後方の垣の中に社殿が三つ並んでいる。
中央が当社本殿、左右が摂社・日御前神社と大川神社。
「千石船三社丸」の名は、当社・蛭児神社と日御前神社・大川神社に因んだ名。
ところで、左右どちらが日御前神社で大川神社であるのか、
参拝時にメモをしたのだが、そのメモが見当たらず、
間違いを書きたくないので、明言はしないが、
たぶん、右が大川神社だったような気がする。
垣の右手に、朱の鳥居の境内社があり
中には天満宮と稲荷神社が祀られている。
当社社号は「蛭児」と書いて「ヒルコ」と読む。
通称は、日間の宮(ひまのみや)。
古来、日留居大明神と称された神社。
元は当社の西、大向にある四神ヶ嶽(じじらがたけ 173.5m)に奉斎されていたが
建暦年間(1211〜1213)現在地に遷座。
玉葉集に鎌倉右大臣の歌
「神風や朝日の宮の宮移し影のどかなる世にこそありかれ」
は、当社の遷座を歌ったものという。
この四神ヶ嶽が日村岳であり、
当社は村岳神社として延喜式に記載されたといい、
式内社・村岳神社の論社になっている。
社殿屋根に桐紋が付けられていたが、拝殿の中に三柏紋があった。
蛭児=エビスなので、三柏紋が神紋だと思う。
ただし『神社名鑑』などには神紋の記述は無い。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
境内 |
左の摂社と本殿 |
本殿と右の摂社 |
天満・稲荷 | 天満・稲荷 |
千石船三社丸の模型 |
蛭児神社は古来、日留居大明神と唱え尊崇されてきた古社で、海上安全、豊漁祈念、開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。元は、四神ケ嶽に奉斎されていたものを順徳帝の建暦年間(西暦1211年頃)現在の地に移転したものといわれている。「玉葉集」に、鎌倉右大臣源実朝の歌で、「神風や、朝日の宮の宮うつし、影のどかなる代にこそありけれ」とあるが、これは、日留居大明神である当社の社殿の造営工事が完成した時の遷宮のさまを詠んだ歌として有名である。後年、社殿が炎上したことにより、大永2年8月(西暦1522年室町時代)に再建営されたことは、記録文書により明らかになっている。日留居大明神は、延喜式(平安時代・西暦927年)所載の村岡神社であるとの説があるが、詳しいことは分かっていない。 ご祭神火遠理命について。 天孫族で、天津日高彦穂穂出見命ともいう(火の勢いが次第に弱まっていくことを意味し、同時に、稲穂が豊に実って重く垂れることをいう)。この神を山幸彦といい、高千穂宮をも営まれた神で、農耕畜産漁猟の道を指導し、民生安定の基礎を作られた神で、鹿児島神宮の祭神でもある。ちなみに、瓊瓊杵尊は霧島神宮に、鵜鴎葺不合尊は鵜戸神宮に、神日本磐余彦尊は宮崎神宮に祀られています。 −『平成祭データ』−
三社丸は当区の氏神、蛭児神社と摂 社 日御前神社、大川神社の三社に因 んだものである。 明治時代までは 旧暦正月十一日船おろしと言う行事 がおこなわれて海上の安全と 豊漁が 祈願なされていた。 −境内案内− 千石船の由来
正親町天皇の天正十年、湊宮が時の
城主一色守護の領地であった頃、同
地に 五軒家(木下、本小西、浜小西、
下家、新家)という回漕業を営む豪商
が住み、土地の大半はこれらの家々が
屋敷として所有し、住民とは親方子方
の関係を結び、子方は全て五軒屋に
衣食さし持船三十八隻に乗り組ませて
旭の港を根拠地にして外国と貿易を成
し盛威を振っていた。寛永十三年、幕府の命令で(鎖国時 代であった)船の型を千石船に制限さ れた。それ以来国内貿易に転じ、北は エゾ松前(北海道)から西は下関(萩) 兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京) までをその活動の範囲と成した。 これがため、家運は以前にも増して 益々繁盛し、津々浦々にその威勢を 知られるところとなった。 その後寛政十一年、住民が豊漁祈願 と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を 記念するため この船の模型を土地の 氏神様に奉納したものである。 −境内案内− |