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伊太祁曾神社
いたきそじんじゃ
和歌山県和歌山市伊太祈曽558
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式内社 紀伊國名草郡 伊太祁曾神社 名神大 月次相嘗新嘗 |
伊太祁曽駅のすぐ南にある。一之鳥居から南へ行くと、
東向きの二之鳥居、太鼓橋、境内、拝殿、社殿と並ぶ。
二之鳥居前には古墳があり、切通しのような雰囲気。さすが、木の神だ。
境内の階段を上がると拝殿があり、垣内に本殿。
左右に脇宮があるが、垣のため良く見えなかった。残念。
式内社・伊太祁曾神社に比定されている古社であり
紀伊國一宮、旧官幣中社である。
伊太祈曽の語源として、『紀伊續風土記』には、
「五十猛(イタケ)の神と有功(イサオ)の神」が縮まったとある。
祭神・五十猛命は、素戔嗚尊の子である。
素戔嗚尊は高天原を追放され、五十猛命をつれて、
新羅の曾戸茂梨へ渡り、後、出雲へ来た。
その時、五十猛命は木種を新羅に植えず、日本に
植えたので、我が国は木々の生茂る国となった。
また、素戔嗚尊が全身の毛を抜いて木々とし、
妹達(大屋津比賣命・都麻津比賣命)と植えたともある。
古事記では、大屋毘古神とよばれ、
伊邪那岐・伊邪那美によって生まれた建物の神とされる。
木の神なのだ。
往古は、日前国懸神宮の鎮座する秋月に鎮座していたが、
垂仁天皇十六年、日前国懸神宮が名草浜より移動したため
社地を献上し、山東の地・亥の杜に遷座されたという。
神紋は、伊太祁曾の「太」だそうだ。
どうして、「伊」じゃないんだろう。
伊太と祁曾の複合語で、伊は接頭詞だとすると、
「太」が根本となるのかな。あるいは、伊勢に遠慮か。
伊太祈曽駅南の一之鳥居 | 豊磐間戸命・櫛磐間戸命 |
境内入口の二之鳥居 | 切通しから二之鳥居 | 木祭記念の碑 |
太鼓橋 | 拝殿 |
拝殿 |
本殿と右脇宮 都麻津比賣命 | 本殿と左脇宮 大屋津比賣命 |
御神木 | 蛭子社 | 小さな祠 |
おさる石 |
南東500mの田の中に、旧社地の「亥の杜」がこんもりとある。
ちいさなジャングルといったところか。
旧社地 亥の杜 |
亥の杜中に祠 | 亥の杜中の祠 |
神社の北を熊野古道が通り、氏子區域内に平緒王子
社、奈久智王子社の跡あり、これを結ぶ道路上に伊太祁曾
神社の石燈籠があつた。神社の所在地は常盤山と言ふ丘の
上で、神社の北に接して和田川が流れる。また参道の一の
鳥居より南行一〇〇メートルにて西折して、東面する社殿
に至る特徴を持つ。 御鎮座の由來は、日本書紀神代巻上に「時素戔嗚尊子號五十猛命。妹大屋津姫命。次枛津姫命。凡此三 神、亦能分布木種。即渡奉紀伊國。」とある。續日本紀に 「文武天皇大寶二年己未。是日分遷伊太祁曾、大屋都比賣、 都麻津比賣三神社。」とあり、寛永記に「伊太祁曾明神ハ 和銅十六年十月初亥日當所ニ遷リ給フ。」とあり、永享文書 に、「日前國懸影向ノ刻、彼ノ千町ヲ兩宮ニ進ジ去リ、山 東ニ遷リ給フ。」とある。これらに依り、垂仁天皇十六年 までは現在の日前國懸兩神宮の社地に、和銅六年までは奮 社地である「亥の森」に、それ以降は現在地に鎮座せられ たと考へられる。 御事蹟に就ては、日本書紀神代巻上に「素戔嗚尊其ノ子 五十猛神ヲ帥イテ新羅ニ降到リマシテ曾尸茂梨(ソシモリ)ノ處ニ居マ ス。……初メ五十猛命天降リマス時ニ多ニ樹種ヲ將チテ下 リキ。然レドモ韓地ニ植エスシテ盡ク持歸リテ遂ニ筑紫ヨ リ始メテ、凡テ大八州國ノ内ニ播殖シテ青山ニ成サズト言 フコトナシ。コノ故ニ五十猛神ヲ稱ヘテ有功(イサオ)之神トナス。 即チ紀伊國ニマシマス大神是ナリ。」とある。これによつ て古來、樹の神、植林の神として林業、木材業の関係者よ り尊崇が篤いのである。 また、古事記神代巻上の大國主神が八十神から迫害を受 けられ給うた條に、「汝ココニアラバ遂ニ八十神ニ滅サエ ムト告リ給ヒテ、乃チ木ノ國ノ大屋毘古神ノ御所ニ速ガシ 遣リ給ヒキ。爾れ八十神覓ギ追ヒ臻リテ、矢刺ス時ニ木ノ 俣ヨリ漏キ逃レテ去リ給ヒキ。」とある。これによつて古 來一般に「いのち神」として大難、大病を克服し給ふ御神 徳にすがる慣はしが續いてゐる。 −『式内社調査報告』− |