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走田神社
はせだじんじゃ
京都府亀岡市余部町走田1
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式内社 丹波國桑田郡 走田神社 |
京都府亀岡市にある。
亀岡駅の西3Kmほどの余部町走田に鎮座。
亀岡駅から西へ進み、京都縦貫自動車道を越えて300mほどの場所。
曽我谷川の西側に境内があるが、境内入口は道路に面した北側。
参道入口に鳥居が建ち、右手に「走田神社」と刻まれた社号標がある。
鳥居をくぐると、樹木に囲まれた広い砂利の参道。
100mほどもあるだろうか。
参道の突き当り、右手(西側)に、東向きの社殿が建っている。
社殿は、垣に囲まれた一段高い場所。
垣の中央に神門があり、奥には流造の立派な本殿。
本殿前に拝殿はなく、唐破風向拝が付き出している。
参拝は夏の休日。曇天。
樹木に覆われた境内では、
日射しが強いと木洩れ日と影のコントラストが強く撮影には不向き。
森の中の神社では、曇天か夜明け間際の参拝が良い感じなのだ。
創祀年代は不詳。
社伝によると和銅四年の勧請という。
式内社・走田神社に比定されている古社。
『式内社調査報告』には、『三代実録』貞観十五年(873)四月五日に
正六位上の神階を授けられた「和世田神」が当社の可能性があると記されているが
その前に信濃国の塩野神の名があり、「和世田神」は信濃国の神だと思う。
『式内社調査報告』では祭神は、
彦火火出見命・玉依姫命・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。
『特選神名牒』では、玉依姫命を主祭神とされているが、
現在の祭神は、彦火火出見命・豊玉姫命・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。
『亀岡市史』によると、内陣内の神像は
中央が御童形の彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、左が彦火火出見命、右が豊玉姫命らしい。
社号「走田」の由来については
当社に奉納されていた絵馬から、毎夜馬が抜け出して馳せ
その足跡が溝となり川となって田を潤したから。
では、絵馬が奉納される前には何と呼ばれていたことになっているのだろうか。
明治六年六月、郷社に列した。
社殿のある垣の前、左右に境内社がある。
右が経津主社で、左が大国主社。
社殿の向いに池があり、池の中には弁財天社。
参道脇には、東側に百大夫社、西側に稲荷社が祀られている。
社頭 | 鳥居 |
参道 |
境内社殿 |
大国主社と社殿 | 社殿と経津主社 |
本殿 | 本殿 |
本殿 |
参道の百大夫社 | 参道の稲荷社 |
池に弁財天社 | 参道 |
走田神社
走田神社は社伝等によると和銅四年(七一一)に創祀されたといわれます。また、平安
時代の書物である「延喜式」の「神名帳」に記載されている丹波国桑田郡
十九座の内の一社です。祭神は彦火火出見尊、豊玉姫尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の三柱をお祀りしています。この彦火火出見尊は神話「海幸彦・
山幸彦」に登場する山幸彦にあたります。豊玉姫尊は、山幸彦が海幸彦
の釣針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘で、彦火火出見尊の妃となった
方です。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、この二神の御子です。社伝等によると、昔、社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出て草を食べ歩き、 やがてその蹄の跡が窪地となり川となったといわれます。この川は増水の時でも 川音を立てないことから「不鳴川」とも呼ばれます。この川は、干ばつの時でも枯れること がなく、近隣の田畑を潤しました。また、この川の改修や浚渫(泥さらえ)等をするときは、 故事にしたがってその日には馬の鉱物である青豆を供え祈願する風習が今も 続いています。また、境内の中に、「垂乳味池」と呼ばれる清水があり、次のような話が伝わって います。豊玉姫尊が葺不合尊を出産した後、御子を波瀲に残し龍宮に帰ってしまいま した。そこで、残された葺不合尊は豊玉姫尊の妹である玉依姫により養育されることになりま した。玉依姫は、この清水の水で粥を作り乳の変わりとしました。これより「垂乳味池」と呼ばれるようになり ました。後に、この清水は、乳の出の悪い婦人がこの清水で作った粥を食べると、乳が たくさん出るようになったといわれています。 −参道案内板− 祭神は、古事記の神話「海幸・山幸」に登場する「山幸」にあたる彦火火出見尊と、その妃ーー山幸が失った釣り針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘・豊玉姫命と、その御子彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の三神であり、男神女上[原文ママ]の二神像と童形の神像との三柱を奉斎する。当社の創立については書き記したものがなく不明であるが、口伝によれば奈良時代の和銅四年(711)に創建されたという。平安時代初期に記された「延喜式」の丹波国桑田郡の項にその名が見え、その存在が確認されている。以後中世の記録はなく、江戸時代に入って、亀山藩松平家の支配地の安町村・余部村・河原町村・新家村・穴川村の氏神として厚い尊崇を受けてきた。本殿は元禄十五年(1702)にほぼ現在と同じ規模のものが建築され、盛大な正遷宮の祭典が行われたことが記録に残り、その棟札の文面も現存する。以後、末社および諸付属建築物がつぎつぎと建ち、境内の燈篭は寛永元年(1624)建立のものを最初として、元禄、享保、元文、宝暦、安永、寛政、天保と年号を記した二十基を越す燈篭が列立し、江戸中期以後の氏子の人々の尊崇の的であったことが伺われる。氏子は農村地域であり、五穀豊作、家内安全を祈願した。また、亀山藩主の尊崇も厚く、銀五枚が毎年寄進されることになったことが寛文六年(1666)日付の文書に残っている。明治に入り亀岡町制がしかれると、その西部の氏神として東の鍬山神社と旧亀岡町を二分した形となって今日に至っている。大正年間に隣村篠町に小作争議が起こった時、遠く当社でその旗揚げ大会を催すなど農業の守り神としての信仰が厚かったが、戦後、旧亀岡町西部も多くの住居が立ち区域も市街化されて氏子数の増加とともに氏神の尊崇も変貌しつつある。末社としては、長吉稲荷の別称をもち倉稲魂命を祭神とする稲荷社があり、文政九年(1828)の燈篭が立ち、江戸時代から商売繁盛を祈願する人が絶えない。他に猿田彦命をまつる百太夫社、大国主命をまつる大国主社、経津主命の経津主社、玉依姫命の弁財天社がある。 [所伝]言い伝えとして農耕にまつわるものが多い。境内の東を流れる「不鳴川(ならずかわ)」は増水の時にも決して川音を立てないのでこの名がある潅漑用水路である。昔、社殿に掛けられていた額の絵馬が見事な出来であり、この馬が毎夜額から抜け出して近くの草地へ草を食いに行ったという。その足跡がだんだん窪みになり、溝になりついにこの川になったという。そのために、この川の改修や溝さらえにの日には、馬の好物の青豆を供えて祈願する風習が今も続いている。また、境内の通称「亀の池」にはこんこんと清い涌き水が出て、不鳴川に注ぎ下流の水田を潤していた。茶道に適する水と、多くの人が遠く大阪・神戸方面からも水を汲みにくる人があったが、最近その涌水量が減少して昔日の清さや味はないのが惜しまれる。この池に当社の遣わしものといわれる亀を放ち決していじめない風習が氏子の中にある。さらに、神社の森および近辺は口丹波一の「まむし」の棲息地として知られるが、この毒蛇は決して人を噛まないという言い伝えがあって、害を受けた話も聞かない。 [その他]当社と別に、同名・同祭神の「走田神社」が向日市にあり、ともに式内社であるが、その関係はふめいである。 −『平成祭データ』− |